アメリカ・パラダイスへの横断旅行(2)決行編
著・堤徹


目 次

準備編
完全自由には、つらいものがあった
限定予算にも、つらいものがあった
恐怖のどん底状態に
アメリカの常識・学習編
アパートメントホテルの生活が開幕
フルサイズのレンタカーをゲット
サンフランシスコへ日帰りドライブに
アットホームな語学学校を発掘
アメリカの常識学の教師が決まる
空には見知らぬ星座、踊る人々は盛装の異邦人
足を組み、人を呼び捨てにし、笑いたければ笑う
巨大な駐車場でクルマを見失う
時速百九十キロの恐怖のドライブ
湖畔でピクニック、日本人を発見
「彼女を満たしてほしい」と頼むとガソリンが
同じ行き先の車を追跡したら目的地に着いた
全米旅行に備え大型の全米地図を買う
レストルームで事件発生
難航する大陸横断プラン

アメリカ横断・決行編
熱波のテキサス州ダラスでアメ車をゲット
テキサス州ガルベストンの入り口は空中回廊だった
ルイジアナ・ママはジョークが好き
ミシシッピ州、ブルーの沼を過ぎるとアラバマ州
ジョージア州はコーラがウマイ
南キャロライナ州から北キャロライナ州へ
南北戦争の爪痕が残るバージニア州へ
ホワイトハウスを目前に金髪娘たちと酒を飲み干す
ワシントンDCを素通り、東部各州を走破
眼下にはマンハッタンの摩天楼
ニューヨークっ子と連続デート
ハドソン川の橋を渡るとニュージャージー州
ケネディの足跡を逆にたどる冒険旅行に幕
シカゴの摩天楼に圧倒される
ウィスコンシン州に行きそびれる
シカゴ市民は雷と友だち
ロッキー山脈を越えるとカリフォルニア
日本へ帰国するときが来た


■アメリカ横断・決行編■


 ▼熱波のテキサス州ダラスでアメ車をゲット

 三十二日目(七月二十日・日曜日) テキサスのダラスへ飛ぶ日が来た。これだけ準備を重ねてきたアメリカ横断なのに、怖さと期待感が中和して何も感じない。
 フライトは午前九時十八分発のAA1628便だ。午前六時二十分に起き、六時五十五分にホテルをチェックアウトし、七時十分に駐車場を出る。ルート101から無事にルート87へ出て七時三十七分にサンノゼ国際空港へ到着。七時四十三分にレンタカーリターンの地下駐車場に。一ヵ月間乗り慣れて愛着が染みついたパープルメタリックのカムリにさよならをした。
 七時五十五分にアメリカン航空の搭乗手続きが完了して搭乗券を手にする。チェックインカウンターでは、思いがけないことに日本人女性がいて親切に日本語で対応してくれ、ダラス行きだけでなく他の飛行機の座席も廊下側へ変更してもらうことができた。重すぎるのではないかと心配していたサムソナイトが、追加料金なしに無料で機内へ。心配は杞憂に。
 ゲート15でリラックスしていたら、いつの間にか搭乗時刻が来て細長い飛行機の機内へと吸いこまれるように入る。アナウンスはオール英語なので耳を澄ます。新幹線じゃないので、アナウンスを聞き漏らしたからといって降りるべき駅を通り過ぎるということはもちろんないのだけれど、やはり一言一句が気になるもの。
 午前十時、機内食の時刻がきた。スチュワーデスに
「シリアル、オア、ヨーグルト?」
 と、それだけ聞かれる。ビフテキという選択肢は無いらしい。
 コーンフレークを牛乳に浮かせたみたいなシリアルにする。たくさん食べてスタミナをつけないと大陸横断はできない。コーヒー、バナナ、パウンドケーキも平らげる。
 十時十五分、タービュランス(乱気流)が発生して機体がガタゴトユサユサと揺れ、廊下の人通りが途絶えたのをいいことに、強がって
「カマン、タービュランス」
 と独り言を言いながら、少しよろめいて最後尾のレストルームへ。狭いレストルームで鏡を見てびっくりした。髪の毛にどばーっと白いものが増えていたのだ。外国生活のストレスが頭に来たのだろうか。しかしプラチナブロンドにも見え、若くてハンサムな自分に見とれた。
 自分が嫌いになりかかったら、お互いに見飽きた日本人の顔から逃れるために欧米へ行くといい。訪れた欧米で白人や黒人の顔を見飽きたら、オリエンタルでエキゾチックな自分の容貌を鏡に映してほれ直すことにしよう。

 三千フィート下は景色がすばらしい。
「靴を三千足ぶらさげると地面に届くわけか」
 などと、ついばかなことを考えてしまう。
 原野を直線が走っている。あれはハイウエー。これからあんなハイウエーを来る日も来る日も突っ走るのだ。
 ぼくの座席のB19は左翼のすぐ上だった。巡り合わせなのだろうが、ぼくは飛行機に乗ると、ほとんど左翼側に座らされる。右翼側に座らされてばかりの人もいるんだろうなぁ。
 さすがはハイテクの地、サンノゼ発のダラス行き。みなさん思い思いにラップトップ(日本でいうノートパソコンのこと)のふたを開いている。目の前三十センチのところには電話機とデータポートがある。空の上で電子メールを送ったりインターネットのホームページを閲覧できるというのはすごいね。
 アメリカ国内のフライトは、ちょうど十年前の五月にサンフランシスコとラスベガスを往復して以来のことで、二回目である。乗り心地は抜群。窓際の学者風の縮れっ毛の男はラップトップにはまっていて、わき目もふらない。ああでないといい仕事はできんのだろうな。
 午後零時二十五分、写真を窓から撮っていたら、飛行機がどんどん高度を下げ始めた。目の前の雲が純白で、きのうケーキにかけて食べた生クリームに似ておいしそう。そういえば昔、「のんちゃん雲に乗る」という鰐淵晴子さんの映画があったっけ。
 唐突に、
「prepare for landing」
 のアナウンスがある。とても威厳のある男声であった。
 やがて大河と郊外の町並みが直下に見えた。かなり揺れる。午後零時四十二分、着陸。とうとうあこがれのテキサスに来てしまった。
 DFW(ダラス・フォートワース)空港に到着して二十分後、回転寿司みたいにして手荷物を受け取るバッゲージクレームにぼくの荷物が無事に出てきた。
 外に出ると、卒倒しそうな暑さだった。新聞は、猛暑により多数死者が出ていると伝えていた。この夏、テキサスの熱波は「one hundred plus」、つまり華氏百度以上、摂氏で三八度以上という殺人的なものであった。結局、死者は八十人以上を記録するという最悪の熱波になった。カウボーイと油田、そしてカントリーミュージックを連想するテキサスのイメージも、第一印象はサウナ風呂だった。
 レンタカー会社のシャトルバスに五分も揺られ、汗だくになってハーツのカウンターへ。
 ハーツの男性社員が
「トーラスでいいか?」
 と聞く。トーラスはフォードのアメ車だ。
 ぼくは
「カムリくらいの大きさのクルマがいい」
 と主張するのだが、彼は
「トーラスはトヨタ・カムリよりビッガーなのだが」
 と説明した。
 丸まっこいシェープなので小さく見えるけど、カムリより大きかったのか。喜んでトーラスにする。
 ハーツのフロントデスクを離れようとすると、さっきの男性社員がていねいに
「トールゲートでこのチケットを出すとフリーです」
 と券を一枚くれた。空港の駐車場を出るとき駐車料金を払わないで済むわけだ。
「この空港のゲートを出るとトール(ぼく)はフリー(自由)になるのだなぁ」
 なんてだじゃれを考えつき、無邪気に喜んでしまった。
 ぼくの情報処理機材はすべて助手席にそろっている。一眼レフ、デジタルビデオカメラ、二台のサウンドレコーダー、メモ帳、ボールペン、地図あれこれ、ガイド書、英和・和英辞書、コンピューターなどが雑然と置かれている。
 午後一時三十二分、四リッターのフルサイズ四ドアの赤い車をゲット。車内の時計を見ながら腕時計を二時間進め、時差を調整する。したがって今、午後三時三十二分ということになる。同じアメリカ合衆国なのに時差があるなんて。時差ボケを起こしてしまいそうだ。しかも、十月二十四日まで夏時間なので、十月二十五日以降はまた時計を一時間戻さなければならない。
 駐車場を二周して慎重に車に慣れ、いざ発進。フォートワースの街を車で走って見たあと、意気揚々とダラスへ向けて走り出す。
 ヒットマンが隠れてケネディ大統領をねらい撃ちしたビルみたいなのが見えた。「ケネディを生きて返せ」みたいなことを考えながら高層ビルがぽつんぽつんとある街を走る。うわさ通りテキサスっ子はラン・ファースターだ。平気で七十マイルくらい出している。ひとり、パトカーに捕まっていた。
 黒人女性の車が高速でエンコして高速の脇をひとりで歩いていた。この熱波では高速を下りるころには熱射病で死んでしまうのではないかと、こっちまで不安になった。そういえばUSAツディで熱射病用語の解説記事が出ていたっけか。恐ろしい話だ。この分ではもっと死人が出るかもしれない。
 ここでレンタカー会社で携帯電話をレンタルするのを忘れたことを深く後悔した。
「なにかあったらどうしよう!」
 テキサス時間で午後四時四十五分にダラス中心部でルート45のエントランス路を発見して長い列に割りこみ、南下する。午後五時十分、疲れたのと、シャツが汗で濡れて腹に絡みつくのが気色悪いのとで、田舎のスーパーで一休み。駐車場の車内で着替えのため上半身裸になったのを白人中年女性に見られてしまった。恥ずかしい。
 このスーパーでレジの人に
「Can I use restroom?」
 とトイレを借りたが、レジの女性がすごく親切だ。場所を教えるためわざわざドアの前まで付いてきてくれた。生まれて初めて見る日本人が珍しいのだろうか。少し怖かった南部が、あまり怖くなくなった。
 午後五時五十五分、エニス(Ennis)という街に到着、メインストリートをのろのろ運転でゆっくりと見物した。小さいが、端正でいい街だ。
 午後七時を過ぎて眠気で運転が危険になり、フェアフィールド(Fairfield)という田舎町のギャスステーションでかんたんな夕飯をとる。パンとコーヒーと春巻風スナックで三ドル足らず。GS内の親切そうな女性にホリデイインへの道を聞くと
「ホリデイインかどうか知らないが、新しいモーテルならルート45の橋を渡ったところにある」
 と聞かされて行くと、まさしくホリデイインだった。ただしホリデイイン・エクスプレスといい、ホリデイインのモーテルバージョンといったところ。一泊七十六ドルとやや高めだが、プール付きの豪勢さだし、新しくて清潔で美しいので泊まる。チェックインカウンターの男性が俳優のようにセリフにフリをつけて宿泊のルールを説明するので楽しい。そばにいた女の子がきょとんとした目でぼくの話し方をずっと観察していた。
 プールでは白人の幼い姉妹が泳ぎ始めていた。屋外に大自然が広がり、テキサスは今まさに暮れなずまんと欲している。
 部屋にはクイーンサイズのベッドが二つ、デンと並んでいた。アメリカ人はおかしなところに二人分の用意をする。ひとりしか寝ない部屋にベッドが二つとか、ひとりしか寝ないベッドに枕が二つとかいうのはちっとも珍しくない。アメリカの家庭にひとり招かれたとして、通された寝室のベッドにもし枕が二つ並んでいても、
「女の人がだれか添い寝をしてくれるのかなぁ」
 などと変な想像をしないほうがいい。二つの枕は飾りだと思わなくては。枕を一つ抱いて寝るのもいい。

アメリカのホテルやモーテルにおけるベッドのサイズは、
三人分の横幅がキングサイズ、
二人分がクイーンサイズ、
一人分がシングルサイズと表現される。

 うれしいことに電話器にはインターネット接続用のデータポートが付いていた。
 近くのマクドナルドで一個五ドルもするチキンミートを注文するが、これがなんとチキンステーキではなくて、ハンバーガーなのだった。ハンバーガーは嫌いなので食えん。パンだけ剥いで捨ててもツマミにすらならん。でも女の子は親切で可愛かった。高校生くらいだ。
 携帯ウイスキー入れに入れておいたウイスキーをグラスに入れ、氷で冷やして飲みながら日記を書いている。ものすごく疲れ、しかものどが渇いているので水をがぶがぶ。運良く、さっきの田舎のスーパーでスプリングウオーターを一本四十七セントで二本買っていたので助かる。前にアメリカに来たときは、タップウオーター(蛇口の水)をがぶ飲みしていたっけ。おれって、すっかりアメリカナイズされてしまったんだ。こういうペットボトルを離さない人のことをボトラーというのかなぁ。
 あわやというところでクルマのバッテリーをカラにするところだった。午後八時五十六分、暗くなってからメモ帳を車内に忘れたので取りに行こうと車のところへ行ったら、車内の照明が赤々と点灯しているではないか。あぶあぶ。空港でドライビングの練習のときにpanel dimというところを回しまくったのが原因と分かった。エンストしてもバッテリーが上がっても、キーをなくしても(ハーツはスペアキーを貸してくれない)、駐車場所を忘れても、なにをしても一巻の終わりというドライブの旅。
 ちなみにフリーウエーに合流するのにもいろいろあって、カリフォルニアのルート101と同じように考えて、猛スピードでルート45の本線に合流を試みると危ない。ぶつかってしまう。ときには一時停止が必要だ。
 同様に、高速を出るときスピードを殺さなくてもいいところと、いきなり大きくカーブしていてそのままのスピードだと間違いなく路外に転落死してしまう地点とある。自分の命は自分で守らないといけない国だ。
 そういえばサンノゼ国際空港でアメリカン航空に乗るとき
「ピストルは持ちこみ禁止」
 と注意書きがあったっけ。
 この注意書きを読んだ直後、レントゲンでバッグの中の缶切りを発見され、呼び止められてしまった。ピストルの形に似ていたらしい。アメリカの缶切りは歯車を回す仕組みになっていて、日本の缶切りよりずっと大きい。ピストルではなく缶切りなので、没収されなかった。
 午後十時をすぎてホテルからインターネットに接続しようとしたら、全然つながらない。ニューヨークへの電話もだめ。
 内線でフロントデスクに聞くと
「みんなが一斉にかけているからだめなのだ」
 と、つれない返事だ。
 そういえばきのうも午後九時すぎにインターネットに接続しようとしたらだめだったっけ。たった一回だけかかったのは運が良かったのだ。こんちくしょう。こんなかんたんなことも分からなかったとは。か細い電話回線め。

 ここで電話機の横のホリデイインのトラベラーセイフティtipsを拝見。かいつまんで翻訳すると……。

(1)相手が誰かを確認せずにドアを開いてはならない。従業員だと言い張る(claim to be an employee)のならフロントデスクに電話しなさい。
(2)夜遅くホテルかモーテル(どちらもテにアクセントを置かないと発音が通じない)に戻ったら、メインエントランスを使いなさい。駐車場(米語ではa parking lot)に入る前に注意深く、そしてあたりをよく見渡すこと。
(3)部屋のドアなどは厳重に戸締まりし、すべてのロッキングデバイスを用いること。
(4)用もないのに部屋のキーを公衆の面前にさらしたり、不注意にレストランのテーブルやプールに置いたまま席を立ったりしないこと。それらの場所ではかんたんにキーを盗まれてしまう。
(5)多額の現金や高価な宝石で他人の注目を引かないこと。
(6)知らない人を部屋に招待しないこと。
(7)セーフティボックスに貴重品を預けること。
(8)車の中に貴重品を置かないこと。
(9)すべてのドアやスライディングガラスのロックを確認すること。
(10)疑わしい行動を見たら、観察結果を経営者に報告してほしい。

 こんなの一から十まで真に受けて気にしてたら人間不信になってしまう。一応、頭の中に入れておく必要はあるだろうけど。
 深夜になって、ようやくインターネットに接続できた。ベイエリア経由だ。
 9,1,408-244-5735
 でOK。コンマを入れないと、こんりんざい接続できない。
 三分か四分ほど接続してふるさとのニュースを読む。アメリカ国内とはいえテキサスからカリフォルニアへの長距離接続なので、これで電話代が二・七ドルかかった。


 ▼テキサス州ガルベストンの入り口は空中回廊だった

 三十三日目(七月二十一日・火曜日) 冷房が効いた部屋から一歩戸外へ出れば、そこは早朝でも空気がびっしょり湿って生暖かい風がまとわりつく真夏のテキサス。前の晩に干しておいた洗濯物が朝になっても乾いていない。カリフォルニアではこんなことはなかった。
 フリーの朝食は、カフェインの味がしないコーヒーと、すっぱいジュースと、そしてパンとジャム。
 荷物をまとめ、さあヒューストンへ向かって出発。八時四十五分にホリデイインをチェックアウト、ルート45をtakeする。
 午前十時十分、マジソンビル(Madisonville)のギャスステーション「Moe's Travel Stop」でガソリンのPlusを六・一八ガロン(Plusのガロン単価は一・〇九九ドル)入れた。さすが石油の産地テキサス。ガソリンが安い。
 テキサスに来て二日目、すでに百九十九・六マイル走った。一ガロン当たり三十二・三マイルの燃費ということになる。USガロンは約三・八リットル、一マイルは約一・六キロなので、燃費は思ったよりいい。アメ車は一ガロン当たり十五マイルも走ればいいほうだと覚悟していたので。
 アメリカではガソリンの値段は日本の四分の一だ。しかもテキサス州は石油の大産地なので、レギュラーガソリンだとガロン当たり〇・九九九ドルという格安さとなっている。それにしてもアメリカ人は端数に九を並べて格安感をかもしだすのが好きだ。
 ギャスステーションでレジャー用の氷ボックスを発見、四・三ドルで購入する。車内の助手席の真後ろに置いて、運転中、いつでも右手を伸ばせばコーラが飲めるようにしたいのだ。氷がどっさり入ったアイスの袋詰めがたったの一ドル。氷の破片同士が冷えてくっついているのを砕こうとしたら右人差し指にけがをしてしまった。代わって黒人の少女が氷を巧みに氷ボックスへ入れてくれる。少女に感謝し過ぎてチップを忘れたのがずっとくやまれる。チップを出せば感謝の気持ちが薄れるような気がしたのだ。カネか感謝か、それともその両方か。大テーマではある。
 このギャスステーションでルートビアとジュースと水も買う。ルートビアはめっぽううまい。幸せ。このGSで、乗用車を引いて走っているキャンピングカーが駐車しているのを見た。発想の転換です。日本じゃ、ふつう乗用車がキャンピングカーを引いてるぞ。アメリカでは当たり前らしいのだが。まぁ、大きいのが小さいのを牽引するのは合理的か。
 ヒューストンまであと五十五マイルのところで午前十一時八分に待望のスーパーに遭遇した。このスーパー内のレストランでスープとソーセージをいただいた。ほかほかして、とてもおいしい。
 レストランを出るとき、トレー捨てのところで足を組んで陣取っていた老人男性が
「ヘイ、ハウユードゥイン」
 と挨拶してきたので
「グッド。アンドユー?」
 とアメリカ人顔負けのあいさつを交わすことができた。
「ヘイ、ハウユードゥイン」
 なんてあいさつ、サンフランシスコあたりの大都会の若者しかしないと思ってたが、年寄りもするんだな。
 店内で待望のワイン二本とビール半ダースを買う。つまみにビーフジャーキーも。レジの女性は少しテキサスなまりがあり、そして話し方がおっとりとしている。全然せかせかしていない。ここでATMから八十ドルを現金でおろす。他銀行のATMなので一・五ドルもの手数料を取られる。残りが少なくなってきた。残額は三百五十八ドルしかないので心配だ。旅の最後まで持つだろうか。
 午後零時時二十八分、ひやっとする出来事があった。ルート45の右前方で、男女二人がクルマから降りて高速道路上を走っていた。なにが起きたのだ。そう思った一瞬後、前方の走行レーンにクルマが止まっているのを視認したので、ブレーキを思いっきりかけた。たぶんぼくの顔はゆがんでいたと思う。後ろに他のクルマがいたら追突されてあぶないところだった。衝突事故だったのだ。この間、ほんの二、三秒。高速道路では一瞬後に危険が待っている。

 正午すぎにヒューストン中心部に入る。半分ねぼけているので一休み。午後一時十五分、幾何学美のビルが並ぶダウンタウンを高速道路上から見る。ギャスステーションで店員の黒人女性に道を聞くと、
「ジョンソン宇宙センターは45サウスで二十五分かかる」
 と教えてくれた。
 ついでにこのGSのわきでぐっすり三十五分間昼寝をする。隣はドライブスルーのハンバーガーショップなので、ウトウトとしながら注文の受け答えが絶え間なく聞こえる。これはまさしく英会話を労せずして覚える睡眠学習の一種だ。
 寝て起きると急に元気が良くなり、時速七十マイル以上で飛ばしてあっという間にスペースセンターへ。ところがここは観光向けの施設でなく、ロケットを宇宙へ飛ばすホンモノのセンターだったのだ。ほかにUHもあった。これはヒューストン大学の略称だ。
 なんとベイエリアという道路標識と、エルカミーノというストリートまであるではないか。
「なんなんだ、これは」
 と口走ってしまった。これだけ遠くまで来てシリコンバレーと同じ地名に出くわすとは。
 引き返す途中でバンク・オブ・アメリカを発見した。TC(旅行者小切手)を二千ドル分、自分の口座に入金しようとするが、黒人の若い女性行員は愛想が悪い。先客のついでみたいにしてぼくのTCをひょいと無造作に取り上げる。虎の子の二千ドルなので、いかに銀行の窓口とはいえ
「TCの受領書をよこせー」
 と言いたい心境だ。
 女性行員に
「現金はいらない」
 というと、
「意味が分からない」
 と言い、そっぽを向く。なんだこの態度は!
 おまけに
「だったら入金伝票に記入してください」
 と迫る。
 ぼくは
「This is different」
 と抗議すると
「This is Texas」
 と生意気な口を聞く。
 ぼくはカウンター上でビリビリと伝票を破り捨て、彼女をにらみながら銀行を出た。しかし冷静になってみれば、たぶん、ぼくの英会話に問題があったのだろう。結局、この虎の子のTC二千ドル分は手つかずで日本に持ち帰った。怒ってごめんね、ヒューストンの女子行員さん。
 近くのショッピングセンターの駐車場で人の良さそうな学者風の男性に見学できる施設への道を聞くと
「ああ、あの博物館ね。あれは単なるコマーシャルだよ」
 と教えてくれたので、感謝しつつ午後二時五十分、何も見ないでヒューストンにさよならする。
 で、ルート45をさらに南下してガルベストンへ向かった。助手席側のガラス窓に流れる海岸の景色を見ていたら、南洋の楽園を思わせる風情にあふれていてすごく楽しく、テキサスに足を踏み入れてから初めて
「来て良かった」
 と思った。
 ガルベストンの入り口には、ジェットコースターのようにアップダウンのすごい橋が架かっている。それはまるで空中回廊だ。無料のジェットコースターとあって、結局この橋を三往復することになる。
 空中回廊を渡り、海岸から保養地、そして市街地を一通り見物したが、信心深い土地柄なのか、教会が多かった。
 ルート45沿いには広大な墓地も。アメリカの墓地はどれも花々が美しく植えられていて、偶然通りかかると、
「なんと美しい庭園だろう」
 と、はっとさせられる。
 ガルベストン南端の海岸でバラエティストアチェーンのウオールグリーンズ(Walgreens)に入り、ガルベストンの地図を買う。レジの中年男性は器用な手つきで札をピッと音を立てて数える。歌舞伎でいう「みえ」を切るわけですな。手つきがしゃれている。もっとも五ドル紙幣が一枚きりだったが。
 ガルベストンの入り口手前にある保養地の「キキ島ビレッジ」(Villege of Kiki Island)では外洋ヨットやモーターボートを家の前の水面に浮かべている別荘が多数あった。
 雰囲気にほれ、
「何十万ドル出してもここに別荘を買ってやるぞ」
 と自分に宣言する。いつになることやら。
 Kikiの出口のギャスステーションで、四〇歳くらいの男性客がガソリンの入れ方とクレジットカードの挿入法を親切に教えてくれた。彼が女性を自分の車の助手席に乗せて帰るとき、手を振って二人に別れを惜しむ。別荘の持ち主だろうか。
 GSのレジの女性にホテルがないか聞く。
 彼女は
「ファイマイオ、ファイマイオ」
 という。
 意味が分からなかったが、しばらくしてから
「あ! ファイブマイルのことだったのか」
 とひらめいた。すごいなまりかただ。
 要は、
「五マイル行くとモーテルがあるので安心しなさい」
 ということだったのだ。
 南部の英語はカリフォルニアとまったく違う発音だ。発音からスペルをまったくイメージできん。固有名詞を言われても絶対にスペルが出てこない。
 再びガルベストンの中心部へ。なんだかずっと妻の寿美がいっしょにいてくれているような気分がした。夫婦愛は世界をまたにかける。妻と心で話をしたり、昔の二人のエピソードを思い出したりして寂しくない。
 午後四時過ぎ、ビーチ沿いのホリデイインに入り、部屋はあるかとフロントデスクの黒人女性に聞くと
「sold out」(売り切れ、つまり満室)
 と断られた。
 キャンセルが出るかどうかは午後六時にならないと分からないと言う。駐車場で白人の太めの女性に地図を見せながら
「ルート45でヒューストンへ戻らずにラ・ポルト(La Porte)へ行けるだろうか?」
 と質問すると
「テキサスシティでワン・フォーティシックスに乗れ」
 という。
 さっそくルート146を目指す。例のガルベストンの入り口の巨大な橋を渡り始めた地点で、後ろにぴったりくっつくピックアップがいた。バックミラーで確かめると、運転しているのは金髪女性だ。中年のようにも若いようにも見える。これはいいと、バックミラーと左のサイドミラーで視線を送る。これでずっとアベックドライブをすることになった。心はウキウキと。
 しばらく走ったところの分岐点で、彼女が運転席の窓から左手を出すので、彼女と別れて左の立体交差の大カーブへと入る。下りきったところで赤信号につかまって停車すると、彼女がはにかみながらまた真後ろに止まった。
 信号は青に変わり、再びつるんで走り出すと、左からの太陽がまぶしいのか彼女はサンシェードを運転席のガラス窓に移動させた。そこでぼくも同様に。さらに彼女はサングラスをかける。これをぼくは無視。すると彼女はすぐサングラスを外した。彼女は長い金髪をしきりにかきあげる。で、ぼくも黒髪をかきあげた。
 ルート146のデートはさらに続くが、目的地に着いたのか、ついに彼女は右端の車線に移動する。ぼくはスピードを殺してから彼女のピックアップをやり過ごし、右車線に移って前後を逆になり後続する。彼女の金髪が風にさらさら泳いでいた。しばらくすると右の小路へ右折し、姿を消した。入っていった小路はすぐに海岸へ突き当たるところだから、彼女は漁師の娘か、それとも別荘の若妻か……。
 しばらくしてルート146が左へカーブするが、ぼくは直進した。直感が当たり、すぐ見事にラ・ポルトに到着した。そこで発見した豪華な門構えの「ラ・クインタ・イン&集合住宅」(La Quinta Inn & Suites)にチェックインした。
 ホテルの屋外プールでは黒人と白人が仲良くいっしょに泳いでいる。黒人と白人が一緒にプールで泳いでいる光景は初めて見た。不思議な気持ち。イスラエルへの旅で、エルサレムの嘆きの壁が「歓びの壁」と呼びたいほど祭りムードに酔いしれていたのを見たとき以来の驚きだ。建前の差別廃絶が、ここアメリカ合衆国の南部でもいつしかホンネに代わりつつあるのだろうか。
 隣のレストランで食事をした。コーラでのどをうるおしながら九ドル弱のテキサス・リブステーキを食べる。でかくて、しかも柔らかくおいしくて、全部食べた。ビールといっしょなら二枚食べられそう。
 食事が終わってモーテルに戻り、自動アイス供給機へ氷を取りに廊下を行き来する。氷泥棒が出没するのか、このモーテルの自動アイス供給機はカードキーがないと氷が出て来ない仕組み。部屋に帰って冷たいビールでひとり乾杯。そしてワイン。一本目の赤はすっぱいが、二本目の赤のCaliTerraはおいしい。だが少ししょっぱい。しょっぱいワインは初めてだ。
 右奥歯の歯ぐきの腫れは直ったが、右唇の端っこが切れて痛い。きっと疲れすぎのせいだ。あと、運転していて右半身がよじれるようだ。それに朝になると右足がつりそうになる。長時間アクセルを踏みっぱなしだからだ。治さないと。
 ところで、きょうスーパー内のレストランで、スープをよそおうと思ったとき、近くにいた女性に
「Is this selfservice?」(これってセルフサービス?)
 と聞いたら
「Perhaps...」(たぶんね)
 と口を濁すので、スープをよそうのをよしたら
 「It is!」(セルフサービスだから自分でよそっていいのよ!)
 という。
 しかしながら自信を失ったのか
「But ask her.」(でも念のためお店の女性に聞いて)
 と言われた。
 これは生きた英会話の授業だ。しかも無料(せこい考えかなぁ)。
 極端な話、わざと道に迷って人に道順を聞くのも英語会話の上達法のひとつではある。授業料は無料だし。しかし、これでは目的と手段が逆になっているような気もするのだが。


 ▼ルイジアナ・ママはジョークが好き

 三十四日目(七月二十二日・水曜日) 窓が明るいのに気がつき、穏やかな朝を迎えた。きのうの夕方から恐怖や不安はまったくといっていいほど無くなった。居心地の良いホテルが安心感を与えてくれたおかげ、そして慣れだろうか。こうなると人間ぜいたくなもので、クーラーの音がうるさいとか、冷蔵庫がなんで真夏のテキサスのホテルに無いんだとか不満も出る。
 フェアフィールドといい、ここラ・ポルトといい、クイーンサイズのベッドが二つもある部屋にひとりきりで宿泊するのはぜいたくすぎるほどだ。特にこのホテルの部屋は広い。洗面所まですごく広い。
 ドアを開けると、さわやかであっていいはずの早朝なのに、ぬるま湯みたいな空気が部屋に流れこんでくる。しかし気分はかつて経験したことがないような爽快さだ。目の前に流れる小川のほとりでは白い小型の鳥が数羽、羽根を休めている。このへんの鳥はすごく人なつっこい。
 午前七時を過ぎると朝日がまぶしいくらい窓に射しこんでくる。ニューオリンズとアトランタはあの太陽の方向だ。映画「風とともに去りぬ」の大地を見るのが楽しみ。こんなに朝が希望に満ちあふれているのは久しぶりだ。
 午前八時十五分にラ・ポルトのホテルをチェックアウトしてルート146を北へ行く。すると、またジェットコースターのような巨大な橋に差し掛かる。すげえなぁ。スピードを抑えずに突進すると空中に舞い上がるようでスリルがある。
 午前九時になって、やっとルート10に行く標識を発見した。うれしい。これからルイジアナ州へ向かうというので、ひとりでに
「マイ ルイジアナママ、フロム ニューオリンズ」
 という歌が出てきた。軽薄かなぁ。
 九時三十二分、ボーモントまで三十二マイルのところで休む。後続車から追い越されるたびに眠気が襲うのだ。ひょっとして、交通戦争の冷酷な交戦ルール「追い越せば追い越したクルマに眠気を投げ捨ててすっきりする」の被害者になっているのかも。車窓を流れる景色は退屈きわまりない大草原。時速六十五マイルから七十五マイルで走る。時速七十五マイルは時速百十三キロだが、スピードに麻痺して何も危険を感じない。
 午前九時五十二分にピクニックエリアでクルマを止める。顔と手を冷水で洗って眠気を覚ます。ここにはBBQのためのメノコ皿とゴミ箱以外、なにもない。
 元気が出たので八十マイルから八十五マイルでがんがん走る。七分後、テキサス州ボーモント市に来たが、十数分で郊外に出る。ボーモントは工業都市で、メキシコ湾とつながるサビーン・ネチェズ運河に面して港があり、造船所、石油タンク、精油所が延々と並んでいた。
 間もなくレストエリアに。事務所の裏手に車をつけると、女の子が事務所から出てきて
「駐車しちゃぁいけない」
 と注意される。
「Oh!」
 とすぐクルマに戻ると
「サンキュー」
 と感謝される。
 こっちの人は、ルール違反を注意して相手が素直に聞いてくれると「サンキュー」と感謝する。ぼくも入国早々からホテルで従業員に不注意を注意し、相手が「わかりました」というと「サンキュー」と言うことにしてきた。
 午前十時五十七分、テキサス州とルイジアナ州の州境の橋を超えた。地図で確かめるまでもなく、道路標識に
「ルイジアナ州へようこそ」
 と掲示されている。感激する。クルマを自分で運転して州の境界を超えたのはこれが初めてだ。
 おっと。道路中央に黒い塊が数個、散乱している。バーストしたタイヤのゴム片だった。ぎりぎりでよけることができた。道の端ではタイヤがバーストした乗用車の一家が途方に暮れていた。助けたいが、携帯電話を持っていないので助けようがない。
 十一時十五分、TEXACOのギャスステーションに入る。レイク・チャールズ(Lake Charles)という湖を探していたので、戸外で仕事をしていた三〇歳くらいの女性に
「ここはレイク・チャールズ?」
 と聞くと
「so far」(とても遠い)
 と答えた。
「え? かなりあるの? じゃ、ここはどこ?」
 と聞くとまた
「so far」
 と答える。
「え?」
 とまた聞き返すと、今度は
「sulphur. S,U,L,P,H,U,R」
 だという。
 少しむっとする。だじゃれだったに違いない。
 まじに聞くと、
「Lake Charlesならあと十マイルね」
 と教えてくれた。
 レストルームへ入ろうとギャスステーションの店内をうろうろすると、くだんの女性が別の客の応対を休んで
「そこじゃなくて外のあっち、ワンフォー」
 とアドバイスしてくれた。
「ワンフォー?」
 ひらめくものがあって、レストルームの錠前の1と4をプッシュすると、ドアがすぐ開いた。この初めて会うルイジアナママは親切だ。
 ここで、なんと初めて!すべて自分でガソリンを入れ、自分でクレジットカードを機械に挿入して支払うことができた。いままでは、結局はだれかに助けてもらってガソリンを入れていたのだ。感激する。
 見上げると、雲が空を三分の二くらい覆っている。猛暑も少し和らいだ。
 午前十一時四十分、ギャスステーションの向かいにあるピザ店「ピザ・ハット」(Pizza Hut)に入る。ルートビアにピザとサラダの飲み放題、食べ放題のビュッフェ方式。うっかり真っ赤な色にほれ、チェリージャムのピザをとってしまった。超甘い。これは最後に食べるべきだった。血糊を刀からぬぐい取る侍のようにペーパーナプキンでナイフのジャムをふき取って、今度はマッシュルームとサラミが乗っかったピザの定番に挑戦する。
 結局三切れをぺろり。サラダ二皿もぺろり。こっちへ来てからピザが大好物になってしまっていた。サラダは大好物のオニオンスライスとゆで卵、それにニンジンのチョップ。そしてキューカンバー(でっかいがおいしすぎるキュウリ)。これで五・九六ドルだった。
 店内ではムーディなボーカルの環境音楽がアメリカを演出していた。しびれる。音楽の影響で、ぼくはすっかり幼児状態になってしまった。アメリカの音符と野性の空気を胸一杯吸いこんで、元気いっぱいだ。
 このところナイフとフォークによる食事にすっかり慣れてきた。ハシでなく、ナイフとフォークを生まれたときから使っているような気分がする。映画のタイタニックを三回も見て、映画のシーンに出てくる上流階級の英国人のナイフ・フォークさばきをじっくり見て、それでナイフとフォークの達人になったのだ。えっへん。
 ちなみに映画「スターマン」のジェフ・ブリッジスのしゃべりかたの真似も十八番である。この映画ではジェフは異星人を演じ、ウイスコンシン州からアリゾナ州までのアメリカドライブを通じて最初は片言、そして少しずつ英語が巧くなっていく。このぼくの旅そっくりだ。
 元気が出て運転を再開する。すぐにレイク・チャールズに差し掛かるが、琵琶湖畔に似た観光地であり、車窓から見ただけで満足し、通過する。しかし遊覧船が大きくてきれいだった。
 インディアンの史跡などがあるというラファイエットに午後二時十分ごろ近付くと、いきなりものすごいスコールに見舞われた。空にはしばしば光の矢。稲妻だ。これではインディアンの史跡見学もつまらんものになるので、ラファイエットに寄らず通過することを決意する。十分後、ラファイエットを通り過ぎ、このままルート10を東へバトンルージュ方向へ行く。
 午後二時四十分、ヘンダーソン・スワンプに来た。スワンプ(swamp)とは湿地帯のこと。
 ちなみに、このあたりを走るとbayouという標識をしばしば見かけるが、これはバイウーと読み、アメリカ合衆国南部にある沼・川・湖・湾の入り江のことである。
 このときだけ少し晴れて湿地帯がよく見える。樹々のグリーンが色鮮やかでみずみずしく、すばらしい景色だ。
 間もなくスコールは小康状態に。テキサスへ向かう反対車線はかなり混んでいて車の列がずっと連なっている。
 空がまだ光っている。悪天候のため時速六十マイルに抑えているのに、追い越し車線を次々に車が突っ走っていく。雨がウインドウにたたきつけてきて前がよく見えないのに、なんて無謀なやつらだろう。失礼、なんて無謀な人たちだろう。
 右前方に落雷。稲妻が空から地面にズドーンと落ちた。
 目覚まし用の地面の音(路面とタイヤの摩擦音)が静かになってきた。テキサスではジェット音のようなひゅーんという音だったが、このへんでは
「ぼこ、ぼこ、ぼこ」
 という音色に変わる。
 でかい川が蛇行しているな、と思ったら、それは北米最大の河川、ミシシッピ川だった。ミシシッピとはインディアン語で「父なる川」、あるいは「大きな川」を意味し、南部の黒人は「親爺の川」(Ol' Man River)と呼んだ。ミシシッピ川を賛美するOl' Man Riverという歌をだれかが歌い出そうものなら、アメリカ人全員が起立をして粛々とするくらいの霊性を有するのである。大相撲千秋楽の表彰式に流れる君が代に近い雰囲気があるのだ。
 時を超えて滔々と流れ続ける川を見つめていたら、少年のころ読みふけったマーク・トゥエインの小説「トム・ソーヤーの冒険」の心象風景がひとつ、またひとつまぶたに浮かんだ。かつて蒸気船が往来した雰囲気そのままに、ミシシッピの水の流れは豊かだった。
 ミシシッピの左岸にバトンルージュの河港が姿を現わした。午後三時十五分、ルイジアナ州の州都バトンルージュ市に到着する。新鮮な響きがするこの地名は、先住民のインディアンたちが部族の境界を示すため立てた「赤い棒」(フランス語でbaton rouge)に由来しているという。
 バトンルージュのビジネス区域で高速を下りる。ダウンタウンは外国の中の外国のような気がする。近代的で美的だが冷たい。
 少し走ると生活のにおいがする住宅街にぶつかり、そこの雑貨屋さんでコーヒーと砂糖とオレンジを買う。
 女主人は
「どこにいくの? ニューオリンズ? あそこは夕方になると交通ラッシュがひどいから、ここでゆっくりしていきなさいね。近所にヒッピー風のコーヒーショップがあるから、そこでコーヒーでも飲んで時間をつぶしていくといいわよ」
 という話をし続け、ぼくを離さない。
 ありがたいが、先を急ぐことにする。午後三時五十四分、再びルート10に乗る。ニューオリンズまであと八十マイルしかない。急げばラッシュ前に着ける。
 路肩で、トカゲのでっかいのがひっくり返って死んでいた。ほかにネズミのでかいのが手足を四本、宙に突き出してくたばっているのも何回も見かけた。亡くなられた動物には失礼だが、ユーモアを感じた。
 二十分ほど大森林の中の小道で休憩したら、森を飛び交うトンボが盛んに車のガラス窓にぶつかってきた。トンボといっしょに、しばし森林浴を楽しむ。
 大湿地帯が続く。ここはミシシッピ川の流域だ。午後五時二十二分、再びミシシッピ川が視界に入る。白くキラキラ光る水、水面に見え隠れする樹木の緑が永遠の広がりを見せている。凄い景色だ。
 思わず
「すげー」
 と声を出してしまった。
 バトンルージュで見たミシシッピ川とは、まるで別の川に見えるほど壮大さが違う。ここから少し上流では曲がりくねっていた川の流れが、メキシコ湾を目前にして玉砕しているかのようだ。
 十分後、ニューオリンズ国際空港の近くを通過する。モーテルの標識がたくさん見えるが、たまにはちゃんとしたホテルに宿泊したくなり、ニューオリンズ市内に九つもあるというホリデイインの一つを高速道路上から発見した時点でルート10を下りた。
 ホリデイインのフロントに立つと、若い黒人女性が応対に出たので、部屋はあるかどうかを聞いたところ、
「あるが何泊か」
「ダブルかシングルか」
「ひとりか」
 などを細々と聞かれる。
 カウンター上にぼくの薄っぺらい紙切れのホリデイイン会員カードを置いたが、彼女は手も触れない。紙製の安っぽい会員カードだけがぽつねんとカウンター上で目立ち、エアコンの送風になびいて今にも吹き飛ばされそうになり、後ろに並ぶたくさんの客たちの前で恥をかかされたような気持ちになっていた。
 最後に
「支払い方法はキャッシュかクレジットカードか」
 と聞かれたとき、とうとう切れてしまって
「I won't stay!」
 と答え、きびすを返した。
 チャーミングな女性なのに、なんであそこまで微に入り細にわたって質問し続けたのだろう。
 その後、ダウンタウンなどを走り回ってガソリンを入れたりするが、危険そう(?貧しそう?)なところが多く、ヒューストン同様、このニューオリンズも嫌いになりかかり、ニューオリンズに別れを告げようとルート10をさらに東に向かう。
 最初はこの日のうちにアトランタに向かうつもりだった。ところが途中、ニューオリンズ市内に格安モーテルで有名なデイズ・イン(Day's Inn)の看板があって、そのあたりは上品な感じがしたので、思い切って泊まることにした。一泊四十九ドルだという。
 宿が決まったとたんに不思議なくらい元気が出て、まるで現地人のように車をすっ飛ばしてお酒の買い出しに。
 こちらでは酒屋はリカーショップとは呼ばないようだ。地元っ子に
「リカーショップは?」
 と聞いても通じなかった。
 ウオールグリーンズで水などを買ったついでに
「お酒を買いたい」
 とレジの女の子に聞くと、それはあっちだという。
 あっちへ行ってもわからず、こっちへあっちへとUターンを繰り返すうちに小さなスーパーを見つけた。ここでバーボンのジャックダニエルの小瓶と、炭酸入りのロゼを手に入れる。
 ここは二階のデイズ・イン210号室。近くのポパイで親切な黒人少女と互いにニッコリしながら買ったチキンの揚げ物とトウモロコシをつまみにしてひとりで乾杯する。
「もう一泊しようかなぁ、っと」
 シャワーで体がきれいになったら少しリラックスした。
 パソコンで日記を書くのは疲れる。ベッドを机代わりにノートパソコンを置いているので、マウスパッドはプラスティックのお皿という次第だ。
 考えてみたらサニーベールでは一泊五十五ドル、テキサスで最初のホテルは七十六ドル、次は六十九ドルだった。それがきょうのニューオリンズでいきなり百五十ドルとか二百ドルでは、ぜいたくがぶり返してしまう。この四十九ドルの部屋で良かったのだ。ニューオリンズのホリデイインのお嬢さん、ごめんなさい。ぜいたくを止めてくれてありがとう。


 ▼ミシシッピ州、ブルーの沼を過ぎるとアラバマ州

 三十五日目(七月二十三日・木曜日) 野性のワニが住む沼を探検したい。朝七時を過ぎたところでスワンプ(湿地帯)探検ガイドのカジュン・プライド(Cajun Pride)社に電話してみた。スワンプツアーは午前九時半スタートだという。時間的には参加できるが、場所を聞くと、ニューオリンズからルート10をテキサス方向へ四十五マイルも戻る必要があった。このへんでは野性のワニが生息しているというのでスワンプをぜひ探検したい気持ちと、せっかく稼いだ距離を損したくない気持ちがぶつかり合って葛藤を起こし始めた。
 ここニューオリンズは、朝晩はクーラーを切っても快適だ。根っこから疲れているみたいで、ホテルで二時間ほど爆睡してしまった。自動的にスワンプツアーを楽しめなくなった。アメリカ横断に出て以来、観光にはまったく縁がない。観光しようかな、と思い立つと、とたんに雷鳴がとどろいたり寝過ごしたりして、おじゃんになる。
 午前十時過ぎにニューオリンズのモーテルを出る。ルート10を東へ。湖に架かる長い橋を渡れば、そこは間もなくミシシッピ州である。
 眠気覚ましのため、ときどきハイウエーを下りて空き地を探し、車中居眠りをするが、ハイウエーを上がり降りしていると、しばしば一方通行の一本道に出くわす。そんな一本道で
「一方通行を逆送しているのではないか」
 と恐怖に襲われたら、運転席から見て左に黄色線があれば大丈夫。つまり黄色線を中央線と考えるわけだ。もし右に黄色線があれば、いつ対向車が来るか分からないので、それは危ない。
「すぐにUターンせよ」
 ということになる。
 再びジェットコースターみたいな橋に差し掛かった。上り坂では入道雲の中に突進して雲に囲まれるような錯覚を覚える。下り坂ではスキーの直滑降みたいなスリルを味わえる。
 午前十時三十六分、ミシシッピ州に入った。
 まもなく
「カジノへどうぞ」
 という看板があった。
 カジノがあるのはビロクシ(Biloxi)という保養地である。ギャンブル、そしてメキシコ湾に面した海水浴場とで名高い。ここを訪れるのを楽しみにしていたのだが、そのあたりに差し掛かったところでまた暗雲が立ちこめた。スコールと雷鳴と稲妻。また神さまがぼくのギャンブルをじゃましたのだ。
 大自然はぼくの良き友達で、ギャンブルがてら海水浴をしようともくろむと雷雨と暗雲でじゃましたり、ルイジアナの大湿原でボート遊びを楽しもうと計画するとこれも雷でじゃましたりで、結局ドライブ一筋の四日間になってしまった。
 午前十一時二十六分、ビロクシを空しく過ぎた。これじゃぁビロクシじゃなくてボロクソ気分だ。
 モービルまであと五十四マイル。前方に原爆雲そっくりの雲。これが本当の原爆だったらこのクルマは映画「ザ・デイ・アフター」のようにかちっという音がして止まるな。

 またあわやという事件が起きた。午前十一時五十八分、ミシシッピ州のギャスステーションでトーラスにガソリンを詰め終えて走り出そうとしたまさにそのとき、三〇歳くらいの赤毛の白人男性がぼくのクルマの助手席側の窓ガラスをどんどんと叩き、
「わーわーわー」
 と叫ぶのだ。なんだ、なんだ。とうとう強盗に襲われるのか。
 すると男はトーラスの後部に回る。
「えっ?」
 あわてて運転席から飛び出すと、なんとトーラスの注油口を閉じ忘れていたのだ。この瞬間、数日前サンノゼ市内のギャスステーションで給油直後に走り出して火を噴いたクルマの事故をありありと思い出した。それは地元紙にでかでかと写真入りで報道されていた。
 ぼくは感謝のあまり、自分でも信じられないくらいの大声を出していた。そして赤毛の男に
「サンキュー、サンキュー」
 と何回も繰り返したら、その男はうれしそうな顔をしてぼくをいつまでも見送ってくれた。
 あのまま走っていたらどうなっただろうかと想像すると、ぞっとする。
 ルート10を一路東へメキシコ湾沿いに走っていると、目の前の積乱雲で落雷だ。稲妻が垂直に光った。
 この雷で
「大自然に畏怖する」
 という言葉が自然に出てきた。
 すごくでかい積乱雲で、空がなんだか映画館のパノラマスクリーンのように見えてきた。
 右にすごく美しいブルーの沼が見えた。正午過ぎ、ミシシッピ州を過ぎてアラバマ州に入る。あの映画「フォレストガンプ」の里だ。
 午後零時四十分、アラバマ州モービル(Mobile)市にたどり着いた。メキシコ湾に港を開くこの工業都市モービルは嵐だった。前がよく見えないが、長く付き合ったルート10にここでお別れしなければならない。ゆっくり走りながら分岐点でモンゴメリー方向のルート65へ進む。
 午後一時十九分、モービルリバーという素晴らしい景色の川に来た。空高くそびえる橋の上り坂を登り切ると、そこから見下ろす景色はまさしく樹海であった。なんという絶景、なんという自然美の迫力だろうか。
 午後三時八分、キャッスルベリー(Castleberry)に着いた。エバーグリーン(Evergreen)の一マイル南、モンゴメリーまであとわずか九十マイルのところだ。ここのルート65沿いのギャスステーションでガソリンを入れ、GS内のATMでキャッシュを手に入れ、おもむろに隣のシーフードレストランで食事に臨む。
 このレストランは古めかしく見え、まるで漁師町の食堂といった外観だが、中は見かけより広い。アップルジュースとコーヒー、シュリンプ(小エビ)と牡蠣フライを頼む。映画のフォレストガンプにもシュリンプ漁のシーンが出てくるが、このメキシコ湾産のシュリンプは採れたてとあって旨味が違う。
 この辺に来ると、どこでもタバコを吸い放題となった。さっきのGSで購入したウインストン(Winston)の赤箱がおいしい。そういえばここのウエートレスの上半身の服のデザインもウインストンの赤箱と同じ朱色と黒の配色だ。朱色と黒は韓国系の配色デザインとしておなじみだけどね。
 ウエートレスにコーヒーのお代わりを頼み、すぐまたパンに塗るバターを頼んだら
「コーヒーに入れて飲むの?」
 と聞かれ、コーヒーをぶーっと噴き出してしまった。
 店内にはカントリーミュージックが流れて雰囲気があり、しびれる。ドライブ中らしい白人の老夫婦と中年の家族連れがいたが、みな上品で、高級レストランにいるかのようにマナーを守っているのが印象的だった。ぼくとウエートレスの掛け合い漫才を、見ないようにして見ている。
 レストランを出て再びルート65へ。時速八十マイル(約百三十キロ)で飛ばし続けてきた結果、午後五時半、人口十九万人というアラバマ州の州都モンゴメリー市の郊外に到着した。
 この町のスペルはMontgomeryというので、モントゴメリーと発音するアメリカ人もけっこう多い。独立革命の英雄リチャード・モンゴメリーにちなんで命名された。南北戦争に先だってアメリカ南部連合がここで樹立されている。
 モンゴメリーではかつて黒人差別が非常に激しく、バスの車内でさえ白人が黒人に対して優先的に座る権利があった。しかし一九五五年、ひとりの黒人女性が突っぱってバスの座席を白人に譲らず、このため逮捕された。これを起爆剤として黒人による歴史的なバスボイコット闘争の「バス抗議運動」が始まり、全米を揺るがせた。
 この町のデクスター街バプティスト教会には、あの黒人解放運動指導者のマーチン・ルーサー・キング牧師がいた。彼が黒人に「立ち上がれ」「汝の敵を愛せよ」と演説するその声は、えもいえぬ調べの音楽のように、この町にこだましたのだった。キング牧師の演説をテレビで聞いたことがあるが、一回でも聞いたらあの声の響きは二度と忘れられないだろう。
 キング牧師は「バス抗議運動」だけでなく、セルマからこのモンゴメリーへと向かう一九六五年三月の「選挙権獲得行進」をも指導していた。この三年後の四月四日、キング牧師はテネシー州メンフィス市においてライフル銃で暗殺されている。
 モンゴメリーのダウンタウンは恐ろしく静かな街並みだった。閑散とした道路をビジネスマンやビジネスウーマンたちの乗用車が高速で走っている。なんだか街中が夕陽色に染まっている感じがする。
「これこそがぼくの求めていた土地の雰囲気なんだ」
 と感じた。
 中心街に比較的近いところで偶然、ステートハウス・イン(Statehouse Inn)を発見した。ぼくは予約のない飛びこみ客なのに、ガイド書にある「五十四ドルないしは六十ドル」という情報よりも安い五十二ドルの宿泊費でキングサイズベッドの部屋が借りられた。ただし、また冷蔵庫なし。空調の排気設備の目の前という不利な部屋だ。しかし、すごく部屋が広い。今までで最も広い。テキサスから移動し始めてから四ヵ所だが、どんどん広くなっていく。これは偶然? それとも田舎へ来たから?
 冷えたビールを車内のクーラーから出して部屋で飲むとおいしかった。あー疲れた。一切予定なしにドライブしているので、自分でも次にどこへ行くか分からない状態だが、少なくともあこがれのアトランタまで、まさに指呼の距離にあるということだけは確かだ。
 インターネットでシリコンバレーのスーから電子メールが舞いこんだ。

 「こんにちは。カリフォルニアをお立ちになってから二日目。いかがお過ごしでしょうか。先週お会いしたときに申し上げるべきだったのですが、うっかり言い忘れてしまったことがありますので、e-mailにて失礼いたします。あまり不安がってみてもしょうがないのですが、長距離ドライブの際には、水とガソリンを携帯したほうが良いとのことです。水は、飲料用というだけではなく、暑いところを長く走っていると自動車にも必要になる場合がありますし(わたしはメカニックなことにはてんで疎いので、どの部分にどのくらい使うのか見当もつきませんが)、ガソリンはスタンドに行くと、一ガロン入りのプラスチックの容器が売っていますので、それに分けて入れておけば安心です。ハイウエイではご存じのように、休憩所があるものですし、大丈夫だとは思うのですが、老婆心ながら。なんて。HAVE A NICE TRIP!!!」

 合衆国のハイウエーだけを走るドライバーにとって、この忠告は少し的外れではないかと感じるかもしれないが、しかし水をたくさん携行するのは悪くないアイデアだと思う。炎上しやすいガソリンをプラスチックの容器に入れて真夏の車内に置くのを不安がる人も多いので、どちらかといえばマメにギャスステーションで給油をするのがベターだとぼくも思う。しかし心細いときに心配してくれる人がいるというのは地獄に仏、身に余る光栄という気持ちになる。

全米を網の目のように覆う高速道路ネットワークにおいては、
どのハイウエーも幅が広く、
都会を出ればカーブのない直線がどこまでも続き、
戦時にはジェット戦闘機が離着陸したり
一個旅団の戦車部隊が軽々と往来できるほどである。
そしてハイウエー沿いには燃料や食事、宿泊、医療、娯楽の民間供給施設が
くまなく配置されている。
主要都市を結ぶハイウエーを走っている分には、
「ガソリンを入れる」「食べる」「泊まる」の三大兵站要素に困ることは
まったく無いといっていいだろう。
アメリカ合衆国の基幹ハイウエーは、
南北に走る道路に77や101などの奇数番号が振られ、
東西に走る道路に20や80といった偶数番号が振られている。
このため自分がいま走っているハイウエーの番号さえ把握していれば、
あらぬ方向に迷いこむことは少ない。
また州間幹線道路には「I−10」(アイ・テン)などと
州間(Inter-state)を示すIの頭文字が冠されている。


 ▼ジョージア州はコーラがウマイ

 三十六日目(七月二十四日・金曜日) ホテルのメイドは、映画「風とともに去りぬ」に出てくるメイドそっくりの雰囲気をしていた。つまり、でっぷりして母親然としているのである。そんな黒人のメイドに、朝、通路で
「チェックアウトかステイか」
 と聞かれる。部屋の掃除のつごうがあるらしい。
 八時にビュッフェで有料の朝食をとる。客は白人と黒人が半々だった。黒人のウエートレスが平気でたばこを吸っている。スモーカーに厳しいカリフォルニア州とは全然違う。
 午前八時半、アトランタへ向けてレッツゴー。ルート85を一路北へ。きょうは眠くならず非常に快調だ。長距離ドライブに体が慣れたのだ。
 十時三十七分、道路右に非常にきれいな真っ白い大きい噴水を見た。アメリカでは、高速道路を走るドライバーや街ゆく歩行者に「美」という楽しみを与えることを知っている。日本も早くこうなるといいなぁ、痛切にそう感じた。無粋な電信柱は見たくない。街が芸術作品であってほしい。
 午前十時四十分、短い橋を渡ったらジョージア州に入った。感激だ。南部に来てこの方、心の中に新風が吹きこまれ続けている。深呼吸すると、空気だけでなく充実感そのものが染みわたる。
 十時五十五分、ジョージアのギャスステーションで六・五ガロンを入れる。このへんのハイウエー沿いのGSでトイレに入ると、どこでもコンドームの自販機が置かれている。一ドル以下。妻帯者のひとり旅だからどのみち必要ないわけだが、いずれにせよトイレ内では不潔そうで買う気が起きない。もっと清潔なところで売れよ、と言いたい。セックスそのものまで汚らしそうになっちゃうじゃないか。
 コカコーラが南部ではとてもおいしい。さすがアトランタにメーカー本社があるコカコーラだ。風土のせいだと思う。ごくごくとグイ飲みする。
 アトランタの南二十五マイルのギャスステーションで超甘いチョコレート飲料を飲む。甘いのは疲れをとるというが、飲み干そうとしたら味がどぎつくてだめだった。こっちの人は味や色彩の好みが過激だ。
 アトランタ・ジャーナル紙(The Atlanta Jounal)の一面に掲載されている写真に日本語が写っているのが見えたので買い求めた。
「小渕氏が二百二十五票を得て自民党総裁に」
 とある。昭和天皇が逝去された後、「平成」と書かれた紙をテレビカメラの前に掲げた、あの小渕さんだ。
 正午過ぎ、アトランタの国際空港のジャンクションに来た。遠くにアトランタの摩天楼街が見えた。鳥肌が立つほどかっこいい。センスがいい。ビルのシェープは円筒形あり真四角形ありと変化に富み、幼稚園児が積み木細工を並べたような稚気を感じさせる。街全体がフォルムの美術館だ。これを見たら、いままでの疲れがとれるようだった。
 アトランタ市内を走り回り、午後零時四十八分になって、やっと駐車場に入ることができた。この立体駐車場は最上階の七階が青空の見える屋上になっていて、ここにクルマを止めた。
 エレベーターで下りたが、駐車場所を見失うとまずいので近所のポリスオフィスで地図をどこで買ったらいいか聞いた。そうしたらお巡りさんのひとりが市街地図をくれた。
 現在位置を記憶するため向かいの公園の名前を聞く。するとお巡りさんは
「ウッドをラフすると覚えておけ」
 とアドバイスしてくれた。
 woodruffはクルマバソウという植物だが、ruffには「切り札を切る」という意味がある。「切り札を切れ?」どういうことだろう。
 あるいはゴルフ場の「rough」というように受け取れば、(アイアンでなく)ウッドで打ったら(グリーンでなく)ラフにボールをぶち込んだ、というようにも解釈できる。
 そして後日調べたところでは、ロバート・ウッドラフという人がいて、一九五〇年までコカコーラの社長として強大なリーダーシップを発揮し、世界的に飛躍的に売り上げを増大したという。
 そう、この公園は、有名なウッドラフパークだったのだ。
 公園をぐるり回ったところにあるキリスト教サイエンチスト派の書店では、繁華街の地図を無料でもらうことができた。女性店員は親切で、たまたま来店していた客の白人女性たち三人を紹介してくれ、
「あなたたち、この男性といっしょに行ったら?」
 と勧めたが、彼女たちはぼくの顔を見ながらニコニコと
「イヤイヤ」
 をしたので、ぼくも気を遣わずに済んだわけで、どっちかというとほっとした気分になった。
 かの有名な「アンダーグラウンド」という地下ショッピングセンターを発見した。なんと駐車場の目と鼻の先にアンダーグラウンドがあったのだ。ラッキーだ。
 地下に降りると入り口のところに
「恐れることはない。神が近くにいる」
 と背中に記したTシャツがたくさん売られていた。着ている人も見た。「神を信じれば怖くない」というフレーズがアメリカ人の間で合い言葉になっているということを感じた。
 疲れて地上の噴水の近くで一休み。ふと気がつくと、目の前に有名なコカコーラの博物館があった。
 マーチン・ルーサー・キング・ジュニア通りを少し行くと金色のドームがあるので、イスラム教の教会かと思った。しかしこれはジョージア州の議事堂だった。正面にはジミー・カーターの全身像の銅像が。午後二時十二分、セキュリティチェックを受けて州議事堂を参観する。日本語のガイドパンフをもらって初めて議事堂とわかった。教会と間違わなくて済んだ。
 駐車場のエレベーターを降りるとき、五〇歳近い白人のご夫婦が、黒人に対してまったく恐怖や偏見を持たず、しかも敬意を持って接しているのを見た。
 このような風景は前にガルベストンも目撃したことがあった。ガルベストンのギャスステーションの駐車場で、わけのわからないことを質問してくる黒人男性に、若い白人男性がていねいに
「I am sorry, I don't know.」
 と応じていたのだ。
 ガルベストンもここも、黒人差別がひどいと聞かされていたアメリカ合衆国南部である。
 ぼくは、
「自分のほうこそ黒人に対する偏見を無くさなければならない」
 と堅く肝に銘じた。
 アンダーグラウンドの写真店でフィルムを買うとき、店内で黒人女性にパチリ写真を撮られてしまった。お忍びで旅行中の有名人気分に浸る。
 大事件が発生した。タクシーを拾ってCNNスタジオへ行くとき、タクシードライバーが何気なくカーラジオのスイッチを入れると、
「ワシントンDCのUSキャピトル(合衆国議事堂)で発砲事件があり、四人がけがをした」
 という報道をしていた。
 ちょうどぼくがジョージアの州議事堂で見学をしていたとき発砲事件があったわけだ。ジョージアの州議事堂のセキュリティは少し甘いなぁ、と思っていた矢先だ。後に判明するが、白人と黒人の二人のポリス・オフィサーが死亡、二人は国のヒーローとなった。それに白人女性も顔などを撃たれて重体となっていた。

 CNNスタジオに立ち寄った午後四時二十分現在、あと三時間待たなければ報道スタジオ見学コースに参加できないというので見学をあきらめた。
 CNNスタジオ構内のサンドイッチ店では、黒人店員の二人のうちの一人が非常に横柄だった。皮肉か当てつけか本気かどうか、インテリジェントな黒人客がその横柄な店員に対して
「sir !」
 と敬称で呼びながらも、キツイ口調で食べものを注文していた。
 以後、ぼくも横柄な店員にものを頼むときは右へならいをすることにした。「サー」も「エクスキューズミー」も、きつい口調で言えば抗議の怒声に一変する。
 CNNスタジオ前でタクシーを拾えないのに業を煮やし、CNNの隣のホテル前で宿泊客のふりをしてドアボーイに接近し、タクシーを拾うことにした。
 タクシーが来たのでドアボーイに一ドルのチップを上げると、すぐに乗ることができた。するとドアボーイは、タクシーの後部座席ににもうひとり押し込んだ。同乗者になった人はカリフォルニア州に住む中東系の心臓外科専門医で、ぼくが日本人だと知ると、東京大学をはじめ日本各地の医学部のある大学の名前を口にした。
 ぼくはこのドクターに
「ジャーナリストだ」
 と自己紹介する。
 ドクターはぼくのことを、あのホテルに泊まっている宿泊客だと思っているらしい。彼は空港へ行くという。
 なぜぼくが同じタクシーに乗っているのかが解せないようなので、
「これはカープール(道路混雑防止の乗り合い)の一種だ」
 と教えると、
「なるほど」
 という顔をして首を縦に振った。
 途中でタクシーを降りるとき五ドルをドライバーに支払って彼にさよならをした。
 きょうは、アメリカに来てから最高に楽しい一日だったように思う。振り返ってみればグレイトアメリカしか観光地らしいところで遊んでいなかったのだ。アトランタでは思う存分、観光客と心を一つにした。
 午後五時二十分、後ろ髪を引かれつつアトランタ中心街の駐車場を後にする。五時間の駐車料金は七・五ドルだった。
 一路、ルート20を東へ。モーテルを探すためだ。大都会のダウンタウンでホテルに泊まると高い。
 午後六時三十五分、コンレーという街でコンフォートイン(Comfort Inn)に入る。チェックインをしている最中、雷がごろごろ鳴り、空がぴかぴか光り始めた。
 部屋のフロアに上がるためエレベーターに乗って降りたら、しばらくして全館停電になった。このとき中年の白人夫婦が運悪くエレベーターに閉じこめられてしまった。息子と娘が心配そうに、ぼくの部屋のすぐ前のエレベーターのドアの前で、閉じこめられたパパとママと鋼鉄のドア越しに
「ダディ、マミー、大丈夫?」
 と話をしている。
 これを見かねた別の白人夫婦、それにモーテルの保安要員が子どもたちを囲み、盛んに冗談を言いながら話している。口が裂けても決して不安を与えるようなことは言わないという雰囲気だ。
 肝心の父母の話題になると
「すぐ出られるから」
 それだけ。あとは冗談に徹していた。
 白人女性はとうとう風船まで持ち出して子どもたちと遊び始めた。励ましかたが徹底してる。
 ぼくは子どもたちに、つい、
「a little bit afraid ?」
 と言ってしまった。
 すると子どもたちは、こっくりうなずいてぼくを見つめるので、目頭が熱くなってしまった。
 外は相変わらずひどい雨だ。客のひとりが玄関からずぶぬれになって入ってきた。ホンモノのぬれねずみといった風情だった。ぼくは濡れるのを覚悟で車にカバンを取りに行く。雷が少し遠のいてきたし。外はどんどん暗くなっていく。
 相変わらず子どもたちは心配そうにエレベーターが開くのを待っている。次々にレスキューが来るのがぼくの部屋の窓から見える。リフト付きのカゴのついた車、そして数分後には赤いレスキュー車が大きなサイレン音とともに参上した。
 ぼくは、子どもたちに連れ添った女性に
「レスキューが来た」
 くらいしか言えない。
 しかし不安そうな兄妹が元気になった。
 午後七時十分、
「Dad!」
 と叫ぶ男の子の声がした。
 その声で両親が三十分ぶりに救助されたのを知って胸が熱くなり、反射的に鍵も持たず自分の部屋を出てしまった。今度はぼくが救助される番だ。フロントにそれを言ったら、ホテルの保安要員がマスターキーで部屋のカギを開けてくれた。
 午後七時半ちょうど、電気が来た。暗い部屋でクーラーが突然うなり音を出し始めたのでわかった。
 車の中からメモ帳を取りに行こうと表に出ると、玄関先にいた老保安要員が
「ハーイ」
 と言ってくれたので、ぼくは停電騒ぎで連帯感を得たのだなぁ、と思ってうれしくなった。
 ニューヨークへ電話する。ミスター・カクマが明後日の二十六日夕方、東京からNYCに来るという。いずれかの場所で会うことになるだろう。ぼくがこれから行こうとしているワシントンDCとNYCとは車で四時間半の距離にある。真ん中のフィラデルフィアで会えるといいのだが。
 ニューヨーク情報では、
「ワシントンDCの議事堂(US Capitol Hill)の中で発生した発砲事件で、ポリス・オフィサーが二人死亡、二四歳の白人女性が危篤状態、犯人も撃たれたが生きている」
 ということだ。大騒ぎだ。
 テロリストたちと、テロから市民を防衛する民主主義は、囲碁でいえばコウと、それにシチョウというシーソーゲームを連想する。コウは終わりのある勝負、つまり普通の技量があれば勝ち負けが読めるいったりきたり。いったりきたりの行き着く先に味方がいれば自分の勝ち、いなければ自分の負けというわけだ。
 他方、シチョウは、そのいったりきたりの取引材料について自分に好材料があれば自分の勝ち、なければ敵の勝ちということになる。互いの材料が出尽くすまで勝負は続く。
 囲碁というゲームには戦略的に考えさせられるところが多く、シリコンバレーのベンチャー企業経営者たちの間でもファンが少なくない。議事堂におけるこの事件は、どちらかというとシチョウではなく、コウの勝負の大団円ではないかと思った。つまり、殺し合いというコウの勝負は行き着くところまでエスカレートして、ついにアメリカの民主主義の砦である議事堂にまでテロの牙が及んだのだ。
 ここまで考えてきたところで、近く世界の紛争という紛争は終焉に至るだろうという予感が走った。


 ▼南キャロライナ州から北キャロライナ州へ

 三十七日目(七月二十五日・土曜日) 一夜が明け、目が覚める直前、妻の寿美といっしょに冒険している夢を見ていた。心はぽかぽか温かい。
 午前九時三分、トーラスの運転席に座る。ゴルフトーナメントで有名なオーガスタまであと九十マイルだ。
 ルート20を時速九十マイル近くで飛ばしていたら午前十時四十九分、オーガスタに差し掛かる。サウスキャロライナ州コロンビア市まで残るところ七十三マイル。
 十時五十三分、サバンナ川を通過。この橋を渡るとサウスキャロライナ州だ。サウスキャロライナ州も、黒人が人口の三分の一を占める典型的な南部州である。
「そういえば、そんな名前の映画にバーバラ・ストライサンドが出演していたっけ」
 と、記憶がよみがえってきた。
 それは邦題が「サウスキャロライナ」、原題が「The Prince of Tides」という映画で、冒頭、ゆったりとしたメロディーに乗ってサウスキャロライナの緑に満ちた風景が登場する。まさしくここはそのサウスキャロライナである。
 「ワッフルハウス」というチェーンレストランでビフテキと目玉焼きの昼食を食べて満足し、再びルート20を東へ。
 午後一時六分、コロンビア市に到着した。さっき派手に追い越していった黒いRVが目の前で白バイに捕まって右端に停車させられた。これを見てみな一斉にスピードを落とすが、当然だろう。
 午後一時十七分、コロンビア市内でルート20を降りた。コロンビアは南北戦争で大部分が焼き払われたが、焼け残った古い伝統的な住宅が美しい景観を織りなしていた。
 ここですぐルート555に入る。目指すルート77まで、あと二分の一マイルに迫った。
 ルート77へ入る。午後ルート時二十五分現在、ヨーロッパの小説に出てくるようなロマンチックな名前のシャーロットまであと七十七マイルしかない。名前に惹かれ、どんな街か大いに興味が湧いた。
 午後二時半ちょうど、滝が美しいというグレイトフォールズのところで高速を降りる。しかし滝が見つからない。しかたなく路端のレストランに入る。お店の女主人がコンロのガスが点火しないで困っているので、百円ライターを進呈する。この店内で食べようと思って注文したのに、聞きもせずテイクアウト風に作ってくれたので持ち帰ることにした。鳥のからやきが七個、パン、それに超でっかいボトルのグレープジュース。すごいボリュームだ。

 余談だが、このアメリカで「テイクアウト」といっても通じないことが多い。アメリカではハンバーガーなどを持ち帰ることを「テイクアウト」と言わず「キャリーアウト」というと通じる。
 ファストフード店の看板を見れば
「キャリーアウトできます」
 などと書いてあることもある。
 しかしレストランでは「キャリーアウト」とは言わずに、
「ドッギー・バッグ プリーズ」
 と言ったほうがよいと思う。
 ドッギー・バッグとは「わんちゃんの袋」という意味であり、食べ物の残りがもったいないから愛犬に食べさせようということにして、客は堂々とこの袋に食べ残しを入れてもらって家に持ち帰る。必ずしも愛犬のために持ち帰るのではないあたりがユーモラスである。旅行者であるぼくも、このアメリカの常識をフルに活用して食費と資源をおおいに節約した。

 午後三時四十九分、再びルート77へ。シャーロットまで四十九マイル。
 午後五時五分、シャーロット市に入った。一時間十六分もかかって四十九マイルしか走らなかったのかと言われそうだが、ぼくは居眠り運転を恐れ、しょっちゅうレストエリアで仮眠をとるのだ。
 気が付くと、いつの間にかノースキャロライナ州に入っていた。この州は全米一のタバコの産地として有名で、ウインストン・セーラム(Winston Salem)という洋モクの名前そのもののような都市もある。
 ノースキャロライナ州シャーロット市のすばらしく美しい高層ビル群が見えてきた。名前負けしない街だ。
 このままルート77を北上し続けると、目的地のワシントンDCから離れてしまう。遠回りしたくなかったので、北東へ向かうルート85に乗り換える必要がある。その分岐点はシャーロット市内にある。
 午後五時十七分、摩天楼に見とれつつも、標識に従っていたら迷わずルート85に乗ることができた。運転しながら高層ビル群の写真を南と北からパチリパチリ。
 午後五時二十一分、モーテル探しのためルート85を降りる。
 シャーロットのモーテルの200号室で室内のデジタル時計を見たら、六時半になっていた。僕の腕時計では五時半なのに。ここノースキャロライナ州は東部時間なのだったのだ。人と会う約束があったら一時間遅刻するところだった。腕時計を一時間進める。
 きょう初めて日本のアカウント(富士通系のInfoWeb)でインターネット接続できた。シャーロットには、ぼくのアカウントで接続できるアクセスポイントがあったのだ。ちゃんと機能した。

日本のアカウントを用いて外国で安上がりに接続するためのサービスを
「ローミングサービス」という。
外国の主要都市に接続のための電話回線を設置し、
その電話番号にアクセスすれば電話代を節約できるというサービスだ。
ただし一分間当たり二十円といった追加料金がかかる。
それでも国際通話よりもはるかに安上がりになる。

 ここはテレビのチャンネルが多い。六十近くある。東部時間で午後八時二十六分現在、シュワちゃんの映画を二本も同時にやっている。
 きょう、ルート77のピクニックエリアでホモの二人連れがクルマから降りてくるのを見掛けた。独特の雰囲気で一目で分かった。中年のカップル。車の後ろには虹色のマークのテープが貼り付けられていた。ちなみにホモの多いサンフランシスコでは、ホモの人が住む家に虹色のマークが掲げられていることが多く、かんたんに見分けることができた。



 ▼南北戦争の爪痕が残るバージニア州へ

 三十八日目(七月二十六日・日曜日) ノースキャロライナ州シャーロットのモーテルを出て並木道を走っていると、気分がとても爽やかになる。広大な未開の土地の中で大都会がぽつんぽつんと点在するアメリカ合衆国のでかさを実感する。
「あれーっ!」
 リスをひき殺しそうになった。走行車線の真ん中で、しっぽをのびのびと伸ばしてのたくっていた。こっちもよけるが、あっちもよけた。同じ方向によけたならひき殺してしまうではないか。で、どうなったか振り返ったら、しっかりと生きていて、灌木の中へと走っていった。うちの犬のモモと似ているのでねぇ。殺生したくないんださ。あのリスのあわてかたは凄かった。助かったのが不思議なくらいだ。
 東西南北の方角だけで行き先がだいたい分かるこのアメリカでは、太陽の位置で自分がどの方向に走っているかが分かる。太陽は頼りになる。市内で走っているときも同様だ。ぼくは見知らぬ外国の街で正しい道を走っているかどうか不安になったとき、必ず太陽を見上げる。ただし太陽が頭上に来る真昼は当てにならないが。
 ただいま午前九時ジャスト。グリーンズボロ(Greensboro)まで七十六マイル。
「交通マナーを変えてやる」
 と思い立ってこの二日間、高速道で突っぱってきた。右端の車線を遠慮しいしい走っているのはやめにした。大胆に中央寄りの左車線を走り続け、後続のスピード狂にガンとして道を譲らないことにした。追い越したいやつはくねくねと自ら車線変更をして追い越せばいいのだ。ぼくも図太くなった。
「こっちは制限速度を守っているんだから中央寄りの車線を走ってどこが悪い!」
 変なもので、ぼくみたいなのが突っぱっていると、他のクルマも真似をし出す。遠慮がちな良心的ドライバーが、次々に居直っていくのがわかる。
 とはいえ、高速道路で過激な追い越しっこをし続けていると、隣の車線を走るクルマから窓越しに銃で撃たれる心配もあるので、ほどほどにする。

大都会の近くに来ると、車も情報も一斉に増大して洪水のようになる。
大都会を背にして走り続けると、
潮が引いたように車も情報もまばらになる。
アメリカのドライブはこの繰り返しだ。

 正午過ぎ、ダーラムに到着した。大きな川を渡り、午後零時三十九分、ヘンダーソンに差し掛かる。午後一時ちょうど現在、リッチモンドまであと百マイル。もうすぐバージニア州の州境だ。
 国道沿いの廃れたレストランの空き地でまた昼寝していたら、無線の
「ざーざー」
 という断続音がするので目が覚めた。なんとパトカーが乗用車をスピード違反(speeding)で検挙して職務質問しているのだ。お巡りさんの丸い大きなつばの帽子が印象的だった。
 午後一時四十九分、バージニア州に入った。右に湖、左に芭蕉の湿原のような景色になるが、それもあっという間に終わり、また単調な森林風景の連続に。
 レイク・ガストンという湖が見える。手漕ぎボートまで浮かんでいる。
 バージニア州で初めてのレストエリアに入る。若い白人夫婦が乗用車の中にいた。ドアを全開にして妻が夫の裸の背中をぼりぼりかいている。おサルさんの夫婦みたいでおかしい。ぼくも背中をかいてもらいたい。
 午後二時三十五分、トーラスのオートクルーズの使用方法を発見した。昔っからマニュアル類を読まないたちなので、あれこれ試すまで使い方がわからなかった。ハンドル上の左スイッチをまず押し、次に右スイッチを押せば良かったのだ。オートクルーズとはアクセルのガソリン供給量を一定にする装置だと思いこんでいたが、この装置はクルマの走行速度を一定にするんだな。これは便利だ。上り坂ではスピードが緩まないよう自動的に加速し、下り坂ではスピードが出過ぎないようアクセルを戻す。こうしてスピードが一定に維持される。
 午後二時五十二分、ピーターズバーグに差し掛かる。
 午後三時十二分、リッチモンド郊外に到着する。リッチモンド市はバージニア州の州都にして同州最大の都市である。ジェームズ川に面していて緑が目立つ静かな雰囲気だった。百五十年くらい前まではこのあたりで黒人の奴隷売買が盛んに行われていたはず。しかし奴隷問題に端を発して一八六一年に勃発した南北戦争に直面すると、南部連合の首都のリッチモンド市は北軍から集中砲火を浴び、市街地のほとんどは壊滅状態になったという。犬も歩けば棒に当たるというくらい、あちこちに戦地跡が見られた。これらは南北戦争の爪痕なのだ。
 リッチモンド見学を早々に切り上げ、有料道路に入る。二十五セント玉を二個、料金所の金属バスケットに投げこむとバーが上がる仕組み。眠くて、寸前までひと休みしようと思っていたが、有料道路に入ることで再び北上を続ける決心が付く。
 午後四時五分、今度はルート95を北上、一路ワシントンDCを目指す。午後四時五十分、ワシントンまであと九十マイルとなった。
 知り合いの若手女流フォトグラファー、スザーン・カーンに会いたくてバージニア州フレデリックスバーグ市に立ち寄ることにした。高速道路のルート95を降りてからフレデリックスバーグの中心街まで片道わずか五分の旅である。
 仮に合衆国の首都ワシントンをピラミッドだとして、ルート95が首都巡礼の参道だとすると、フレデリックスバーグはさしずめ参道のわきにたたずんで旅人になぞなぞを問いかけるスフィンクスといったところだろうか。
 フレデリックスバーグの街を漠然と走っていたら、午後六時十六分に偶然フリーランス・スター紙の社屋の目の前に出た。スザーンの勤務する新聞社だ。発行部数五万部の日刊紙である。オフィスは全部閉じていた。空しく社屋を一周し、後ろ髪を引かれるように帰る。
 スザーンに逢わずにワシントンDCへ直行しようと思い、ルート95に再び入ると、ひどい渋滞(very buisy)だった。まるでスザーンが両手を広げて
「行かないでよ」
 と待ったをかけているようだ。
 しかたなく高速を降りる。緑に包まれた丘の上にコンフォートイン・スタッフォード・バージニア(Comfort Inn Stafford Virginia)というホテルの姿があった。瀟洒な外観にほれて入る。泊めてくれと頼むと、女の子が
「スイートルームしかない」
 という。その口調に、一瞬、宿泊を断られたのかと思った。
 コストは一泊七十九ドル。奮発する。部屋はでかい。二つのクイーンサイズベッドの他にクローゼット、独立した洗面所や冷蔵庫や電子レンジのコーナー、それに四人分の喫煙コーナーまである。しかも非常に静かだ。部屋のドアが屋外に面している安造りのモーテルと違い、部屋のドアは建物の内部の廊下に向かって開くので、完全にホテル形式だ。安心してくつろぐことができる。えがっだ。
 スザーンに会いに行く途中のスーパーで買った赤ワインがすごいデラックスな味だ。昔おふくろが自家製造してくれた味に少し似ている。七五〇ミリリットルの肉厚の平たいガラスビン入りで、たったの三・四六ドル。蒸留酒が混ぜられているようで少し味にくせがある。これは「MD20/20」という名前のワインである。
「一八%のアルコール含有量だから気をつけれ」
 と自分に注意を促した。
 ニューヨークに電話する。ちょうどミスター・カクマが日本から来たばかり。電話で連絡を取り合うことになった。
 スザーンから生粋の米語の、しかも美文の電子メールが届いていた。ぼくが送った電子メールには「古き良きアメリカの風」が感じられるというのだ。そして彼女の自宅の電話番号が書いてあった。


------------------スザーンからのメール------------
Toru,Sounds like your having a world wind tour of the good ole' U.S.of A.
I know the feeling of always being on the go from my stay in Japan.

 トオル、あなたのメールには古き良きアメリカの風が感じられるわ。
 日本を訪れて以来、ワタシはその風をいつも感じてた。
------------------スザーンからのメール------------


 スザーンに送ったぼくのメールというのはこうだ。
「アメリカン・エアラインとハーツ(Herz)でアメリカを横断中」
 つまり
「アメリカ空中網の周波数(Herz)に乗って旅をしている」
 と受け取ったらしい。
 まさしくぼくは風となって世界を駆けめぐっているのだ。

 彼女の自宅に電話した。しかし彼女の留守電(answering machine)が調子悪くて、どこにぼくがいるかを伝えられなかった。それで彼女に電子メールの返事を書く。あした会いに行くことにしよう。
 ところで日本人がなぜ英語の口語が苦手なのかが少しわかってきた。
 たとえば
「車をそこで右に寄せて止まれ」
 ということを英語で
「pull over」
 というが、これは馬のたずなを引っ張る(pull over)ところから来ている。
 しかし日本人の何人が実際に馬に乗ったことがあるのだろう。言葉は民族の生活と密接だ。その現実、その場面に直面しないと、日本人とは生活文化が大きく異なる英語は巧くならないのだ。


 ▼ホワイトハウスを目前に金髪娘たちと酒を飲み干す

 三十九日目(七月二十七日・月曜日) 金髪娘のスザーンに逢える日がきた。ホテルやモーテルのチェックアウトタイムはほとんど正午なので、別に何時に起きてもいいのだが、けっこう昼寝をしているので、このごろはわりと早起きになる。ワシントンのアクセスポイントに接続して電子メールを見ると、スザーンから着信がある。それによると、やっぱりアンサリングマシンの調子が悪かったみたい。きょうは午前十時から会議があり、四十五分間で終わるという。会議が終わったころを目がけてフレデリックスバーグへ行ってみよう。
 朝九時半に彼女の新聞社、フリーランス・スター紙へ電話したら、いきなりスザーンが出て、ぼくの
「ハロー」
 の一言で
「ハーイ、トオル」
 と反応した。
「午前十一時に行きたい」
 と言うと、
「それでいいわ」
 という。
 午前九時四十三分、コンフォートインを出発。十時十分、新聞社に到着。待ち合わせまで五十分間もある。街をぐるぐる回る。川あり繁華街あり史跡あり。こぢんまりしたこの街に住みたくなった。
 時間が来て新聞社の受付のお嬢さんにスザーンの名前(スーザンではなくスザーンとザにアクセントを置く)を言うと、彼女が間もなく出てきた。
 彼女は日本人のぼくを社内各部署へ引き回し、記者たち、デスクたち、論説委員たち、写真部のデスクとカメラマンたち、広告部門、制作・印刷部門のアグファとゴメスのシステム、資料室(部長もサーチャーも女性)、LIFE(家庭欄)部門、事務部門などを全部見せてくれた。
 記者やカメラマンは
「もっと詳しく知りたければフリーランス・スター紙のウェブサイトのstarwebを見なさい」
 と勧めてくれた。
 だれもがコンピューターやインターネットで情報武装しているのに驚いた。ここは田舎町の新聞社ですよ。
 社内見学に疲れ、二人でイタリアンレストランへ。ビフテキやスープをいただく。スリムな彼女はダイエットのため軽食だけ。
 スザーンは夕方まで仕事がある。午後二時半にスザーンといったん別れ、ドライブと散歩などを楽しんだあと、フレデリックスバーグ市内のダウンタウンにある観光客向けの案内所のビジターズセンターでカウンター内の静かな雰囲気の女性に
「ここに泊まりたいので宿を紹介していただけますか」
 とお願いすると、
「これは王女の宿(プリンセスイン)と呼ばれているのですよ」
 という言い方でコロニアルイン(Fredericksburg Colonial Inn)を強く勧めてくれた。
 ホテルへ行くと、ロビーで大型犬がじゃれついてきた。
 中世の貴婦人みたいな女主人がカウンターからこれを見て
「この犬はふつう、男性には近づかないんですけど」
 と愛犬家の心をくすぐることを言う。
 彼女によれば、キングサイズが七十九ドル(一階)、クイーンサイズが五十五ドル(二階)だった。迷ったが、二階のクイーンサイズの部屋を選ぶ。シャワーに入って着替えると生き返った。
 午後六時半、川岸に近いサミー・ティーズ(SammyT's)というレストランでスザーンと合流した。スザーンは、ルームメートのネシア(Necia)という若い独身女性を連れてきた。ネシアは宗教の話題が好きなので、気が合うと思って気を利かしたのだ。サミー・ティーズは混雑していてにぎやかで、談笑が難しいと感じたので、同じ通りの並びの静かなタイ料理店に河岸を変え、その一番奥で飲むことにした。ビールとカリフォルニアの赤ワインで会話が盛り上がる。
 後半、フランス系アメリカ人男性のクリスチャン(Christian)が合流した。盛んにコンピューターの話題を出すが、ところどころしか聞き取れない。
「パードン?」
 と二、三回聞き直していたら、スザーンが
「クリスチャンはいつも早口なのよ」
 と、ぼくに助け船を出してくれた。
 ところどころスザーンが補足してくれたところによれば、クリスチャンはプログラマーを目指して猛勉強をしているとのこと。使っているコンピューターはIBM互換機、基本ソフトはウインドウズと、ぼくのマシン構成とあまり変わらない。
 ワインで気が大きくなったぼくは、コンピューターの入門書や事典類を五十冊も出版した話をして自分のコンピューター歴を披瀝した。
 するとクリスチャンは
「cool !」
 と漏らした。
 するとスザーンが
「クールって意味、わかる?」
 とぼくの目を見上げるので、ぼくは
「冷たいって意味か?」
 とは言わず
「すげぇ、って意味だろう」
 とアメリカの新語の知識を披瀝する。
 そして
「Would you be my man?」
 とクリスチャンに聞いた。つまり、ぼくの子分にならないか、ということだ。
 クリスチャンは無言でコックリした。
 うれしくなって
「アメリカで最初の子分ができた。その名はクリスチャンだ」
 と胸を張ってスザーンとネシアに宣言した。
 クリスチャンとはキリスト教徒という意味だ。これでぼくはキリスト教徒の先生になったことになるのだ。ぼくはすっかりキリストさま気取り。
 ウエイトレスの若い韓国人女性がしきりにネシアの背中に絡みついてきた。二人はなじみなのだ。可愛い子だからぼくに絡みついてもいいのだけどね。五人で酒席は大いに華やいだ。
 気分は高揚し、スザーンとネシアの三人でスザーンの行きつけのバーへはしごをすることになった。すっかり暗くなって人通りも途絶えたフレデリックスバーグの繁華街をほろ酔い気分で歩いてバーにたどり着けば、すぐにまた盛り上がり、テーブルを囲んでネシアとぼくはバーボン、スザーンは赤ワイン。
 突然、スザーンがキャピトルで殉死した二人のポリスオフィサーのことに触れた。事件があった首都ワシントンは、このフレデリックスバーグからクルマで一時間と近い。
 スザーンは
「オフィサーが犠牲になったことを思うと、わたしの胸が痛むの」
 と言って両手で胸を押さえる。
 ぼくの胸もきゅーんと痛み始め、悲しみでいっぱいになった。
 あっ、と思ったら彼女の指がワイングラスに当たり、赤ワインをテーブルにぶちまけてしまった。ぼくは、目の前に彼女の血潮がこぼれ散ったような気がした。それは、とてもとても鮮烈な印象だった。


 ▼ワシントンDCを素通り、東部各州を走破

 四十日目(七月二十八日・火曜日) おいしかったきのうのお酒の余韻のなかで目が覚めた。
 CNNテレビではキャピトルの二人のポリスオフィサーの葬式をずっと放映している。星条旗に包まれた二人の遺体の周りをアメリカ国民が別れを惜しみながら歩く。二人の生い立ちも詳しく紹介され、アメリカ合衆国の英雄として永遠の眠りに就こうとしている。
 コロニアルインは、全体的にとてもアンティックだった。部屋の飾りも、カーテンやベッドカバーも、少女趣味といっていいほどだった。さすがはプリンセスの宿だ。
 朝食をとった二階の大広間には歴史の品々が展示されていた。それは南北戦争が戦われた一八六三年当時の「フレデリックスバーグの戦い」で使った銃やピストル、剣、バッグなどである。このあたりは戦場だったにも関わらず、建物が比較的無傷で焼け残ったという。人がいっぱい死んだそうだ。
「この地や南部各州で北軍の英雄の名前を出して誉めるのはタブーに近い」
 そう思った。
 午前十時ジャスト、ホテルを出る。首都ワシントンまでのんびり行っても一時間のドライブだ。十時十六分、ルート1を北へ。しかしルート1は信号だらけなので、長距離を走る道じゃない。高速道路へ乗ろうとするのだが、変な道路に迷いこみ、十時三十四分にもなってやっとルート95を探し当てた。
 アクセルを踏まないのにオートクルーズが勝手にアクセルをふかしてくれるというのは、なかなか爽快な気分だ。ただし前の車が目の前に近付いてくるとオートクルーズを解除しなくちゃならんので、かえってストレスがたまる。だからオートクルーズで走っているクルマはやたら車線を変更する。周囲を走るクルマを見ていると、雰囲気で
「こいつはオートクルーズだな」
 とすぐ判断できるようになった。
 スザーンとネシアが
「ワシントンにいくとキャピトルなどの建物が大きいので、自分が小さくなったような気がするわよ」
 と話していたのを思い出すが、本当かな。
 午前十時四十二分、前と後ろがまったく同じかっこうのトラックを見る。まるでバックで高速道路を時速百キロで走っているような奇妙な印象を受けた。
 午前十時五十二分、シェリフのパトカーがぼくを「ひゅーん」と追い越した。こっちは六十五マイルだが、あっちのお尻はどんどん離れていく。パトカーのスピードは時速百五十キロは出ているように感じた。カリフォルニア州のルート101では、一直線の地点でパトカーが「しゅぱっ」という音を残して一瞬で追い抜いて行ったこともあったが、あのときは時速二百キロ以上は出ていたはず。
 十一時三十五分、ついにワシントンDCだ。高速道路を降りて何気なく走っていると、いきなしUSキャピトルの正面に出ちゃった。新聞のトップ面のカラー写真と同じ光景が目の前にあった。パトカーと警官がたくさんいるが、ものものしいとか緊張しているという雰囲気はまったくない。キャピトルでは淡々と葬儀が行われ、そこは悲しみに包まれていた。ぼくはクルマでキャピトルを一周し、ひそやかに弔意を表した。
 偶然、ビルディング博物館を見つけ、中(見学無料)でキャピトルやホワイトハウスやモニュメントの説明を見た。外に出るとちょうど正午で、キャピトルのほうから鐘の音が響いてきた。アメリカの心は喪に服している。アメリカ国民が死を悼んでいる気持ちが悲しみとともに伝わってきた。アメリカの心の傷口が、悲しみをもって癒されようとしていた。

 くたくただが、一大決心をして、すぐニューヨークへ向かうことにした。頬を自分の手の平で何回もたたき、その痛みで自分を奮い起こす。午後零時四十五分、ボルティモア・エクスプレスウエーを北へ。反対側は大混雑、細長い駐車場と化している。
 午後一時二十分、メリーランド州最大の都市ボルティモアに着いた。チェサピーク湾に面したボルティモアは今では工業都市だが、昔は湾内のケント島に毛皮の交易所があったため栄え、入植者が増えていった歴史がある。
 チェサピーク湾を北上しているとき、言いようもない不安に襲われてパニックになる事件が起きた。そこはチェサピーク湾沿いにある街のひとつ、アバディーン(Aberdeen)だった。スーパーの駐車場にクルマを入れたその直後、どうしていいかわからないほど怖くなる。スーパーでティッシュペーパーを買い、隣のリカーショップでスコッチウイスキーを買い、隣接の薄暗いバーでレストルームを借りた。レストルームの帰り、スコッチを売ってくれた男が地元客たちと「ピストルの殺人事件があってねぇ」という話をしているのが聞こえた。不安はさらに深刻になった。
「ひょっとしてここを離れると不安は和らぐかもしれない」
 そう考え、さっそく高速道路に乗った。すると気分がうそのように晴れた。外国でパニックになったり、行き詰まったりしたら、とにかく閉じこもるのではなく、ただちに自分を解放することが大切だ。部屋の中に閉じこもるのではなく外に出る、孤独を求めるのではなく、友だちを求める。

 間もなくチェサピーク湾の最奥部のハーブル・ド・グラースに差し掛かる。新聞の一面に出ていたが、きのうここでひとりの男性の水死体が見つかった。レジャーボートで遊んでいたら事故になったのだ。妻子は生存しており、別の地点で救われていた。
 スリルとサスペンスはさらに続く。午後三時半、ものすごい橋にさしかかる。天に架けた釣り橋みたいに胸突き八丁の急な上り坂だ。橋の頂上から右を見ると、さらにすばらしい長大な橋が。
 渡りきるとトールゲートがある。トールゲートでは乗用車はcarというレーンに並ばなければならない。間違ってバスやトラックのレーンに並んではならない。
 ペンシルベニア州に入った。いま午後三時四十九分。フィラデルフィアまでもう少しのところに来た。フィラデルフィアは、ワシントンDCとニューヨークとのちょうど真ん中にある全米五位の規模の大都会である。
 フィラデルフィアの寸前で大渋滞に巻きこまれた。このような大渋滞をmajor delayという。この大渋滞の渦に巻きこまれかかった男女の車数台がバックで分岐点へ戻ろうとしていた。強引だ。ぼくはあきらめの心境で大渋滞の渦に進入したが、心配するほどのこともなく、十分も走ると少しずつスピードが出てきた。

 ペンシルベニア州フィラデルフィア市にやってきた。
「まさにこの街でアメリカ独立宣言が採択され、連邦憲法案が起草され、第一回連邦議会が召集されたんだ」
 そのように歴史への思いに浸っていたら、カーラジオでケニーGの演奏による映画「タイタニック」の主題歌が流れた。フィラデルフィアまで来たんだ、という思いと、ケニーGのチャルメラのような音色に心が軽やかに浮き上がる。
 陸上橋の下に工業地帯(コンビナート)が延々と連なっている。その左むこうに摩天楼がかすんで見える。橋は何層にもかさなっており、サンフランシスコのベイブリッジに勝るとも劣らない。右には軍艦が浮かんでいる。
 午後六時三十九分、右が川になる。ニューヨークまであと一時間二十分の距離(のはずだった)。
 あれ! 夕陽が右に見える。
「えっ、なんで?!」
 はっとして考えたら、北ではなく南へ向かっているのに気付いた。ルート295は、なんとなんと、道路がひとりでにUターンしていたのだった。地図を確かめると、ルート295はまさしく逆Uの字を描いている。このままではフィラデルフィア対岸へ戻ってしまう。あわてて北方向へ乗り換え、鈍足道路のルート130に出る。
 午後七時五十三分現在、ルート130を走っているが、ニューヨークまであと五十マイルを切るところまで来た。鈍足の道は時間がかかるが、街の生活のにおいがする。どんな人がどんな楽しみをもちながら暮らしているのかが気分として伝わってくる。家の玄関先に老人や子どもが座りこんで街路をぼーっと見物しているが、ぼくはこの街路ウオッチングをクルマで走りながら楽しんでいるわけだ。視線を思いっきり下に向けなくてはならないジャーナリストにとって、街の生活のにおいは価値がありすぎるくらいある。
 暗くなってくると鳥目のぼくにはつらい。午後八時五十五分、やっと空室のあるモーテルに入ることができた。たぶんここはマンハッタンの対岸、ニューワークだと思う。しかし暗くてわからん。なんか危険そうなモーテルなので怖い。しかし疲労は限界に来ており、怖いだとか汚いだとか言っておれん。
 ここはキーデポジット(部屋のカギを返却しなかったら没収されるお金)で五ドル、宿泊は五十二ドル。宿泊代だけクレジットカードが使えた。フロントデスクは分厚い透明な防弾ガラスで仕切られていて、お金やカードは狭い隙間からやり取りする。他の客の動向を見ていたら、部屋とクルマの間は迅速に歩き、クルマに乗ればすぐロックをかけて走り去り、というぐあいで強い警戒心が感じられた。
 テレビでは朝から夜までUSキャピトルの葬儀の光景をずっと流している。


 ▼眼下にはマンハッタンの摩天楼

 四十一日目(七月二十九日・水曜日) マンハッタンへと戦闘開始、午前七時十三分に四リッターのエンジンの火を噴かせる。
 フロントの女性に聞くと、
「三十分でマンハッタンに着くだろう」
 ということだ。
 十分後、NYCへの道に入る。ニューワーク空港へ着陸する飛行機が頭の上すれすれに浮かんでいる。下から見ていると、一本の空の道を次々に飛行機が通過するのがよくわかる。七時二十六分、早くも朝の渋滞に捕まる。七時半、マンハッタンの摩天楼が初めて見えた。感激だ。まさかこんなとんでもないところに自分で運転して来るだなんて。
 七時三十八分、プラスキ・スカイウエイに。SF映画に出てくるような空の廊下だ。七時四十五分、車の列がゆるゆると動き始めた。
 ホーランドトンネルを抜けると、そこはマンハッタンだった。あふれるような感動もつかの間、トンネルを出たとたん、また渋滞だ。
 しまった! 道路端のカープール車線を走っていたら、お巡りさんに見つかった。ニューヨークのお巡りさんはすぐ反則切符を切るのだ。しかしお巡りさんはぼくのクルマの横っ腹を両手で押し、中央車線へ戻しただけで、反則切符はかんべんしてくれた。午前七時五十八分のことだった。これ幸いと、また勘弁してくれるだろうと踏んで赤信号もなんのその、突っ走る。強引にクルマの列に突っこむ。でないと一歩も前へ進まない。
 渋滞の原因はトールゲートだった。こんなところで金をとるなっていうの。
 午前八時十五分、ダウンタウンへ向かっている。NYの朝はごみだらけ。早くも掃除のおばさんが働いている。あちこちでもう工事の人が働いている。金髪のお嬢さんも工事作業員をしている。男女同権だ。
 あっ、と気づいたときはもう遅い。せっかく入ったマンハッタンをブルックリン・ブリッジへと押し出された。押し出された先はイーストリバーの向かいのブルックリン中心街だった。ギャスステーションの近くの街頭で公衆電話を見つけ、マンハッタンのミスター・カクマに電話を入れる。ミスター・カクマは
「どうしたの、三日間もブラックアウトで。心配したよ」
 と父親も負けるくらいの声を出した。
「すみません、通信事情が悪くって。いまニューヨークに着いたんです」
 と平謝り。
 午前九時三十三分、やっとマンハッタン・ブリッジにつながるアクセス路へ入ることができた。プロスペクト公園を突っ切ったのが成功したのだ。散歩やジョギングの市民がさわやかな表情で公園を行き交っていて、ぼくもここでのんびりしたかったが、マンハッタンも魅力的だ。先を急ぐ。
 午前九時三十九分、マンハッタン・ブリッジへ。橋の上からエンパイアステートビルが見える。とても高い橋なので、自分が宙に浮いたように感じる。この橋をブルックリンからマンハッタンの方向へ渡るとすごい体験ができる。とにかくみなさんクルマでここを一回でも走らなくちゃだめだ。まさしく世界の頂点に立った感覚を体験できる。高さ数十センチの側壁がなかったら卒倒するな。スリル満点。むき出しのショベルカーに上半身裸で乗っている白人男性がいる。車高も高いのでながめは最高だろうなぁ。
 マンハッタンでイエローキャブと競り合うのはいい気持ち。しかしここは何丁目だろう。右隣で渋滞に立ち往生しているシボレーのおっさんに運転席から
「四三丁目に行きたいんだけどーっ」
 と大声で聞いたら、
「四三丁目まであと八ブロックだ」
 と教えてくれた。
 たった一ブロックを走るのに五分もかかっていた。時速三十マイルじゃなくて時速三十ブロックだ。
 午前十時ごろ、四四丁目に近い四三丁目でミスター・カクマに電話する。
「すぐそこだ」
 というので駐車場にクルマを止めて歩く。
 四三丁目と一一番街の交差するところにある背の高いピンク色のビルの二十八階に彼らの部屋があった。ミスター・カクマとミス・マミとカリフォルニア以来の再会を祝しながら、さっそくデスクトップパソコンとノートパソコンの修理に取り組む。
「シリコンバレーからの出張修理は高くつくぞーっ」
 とひとりごと。
 デスクトップは不要ファイルを消すだけで直る。ノートパソコンも電話のジャックを直接つなぐだけでインターネットにつながった。
 インターネットに接続できたところで、またまたミスター・カクマとミス・マミは新しい夢を見始めた。
「堤さん、東京の出版社にインターネットで写真を送信できますよね」
 とマミさん。
 プロの口からは不可能だとは口が裂けても言えない。デジカメがあればすぐにも可能になると思う。
 そこでマンハッタンの繁華街にあるコンピューターワールドへミスター・カクマのポンティアックでデジタルカメラを買い出しに行く。カメラに内蔵されたフロッピーディスクで写真を記録できるデジタルカメラが五百九十九ドルだった。フロッピーディスクをカメラから抜けば、即座にノートパソコンに写真の画像データを移すことができる。
「これは買いだ!」
 と叫ぶと、
「はいはい」
 とばかりにクレジットカードが乱れ飛ぶ。
 きのう、この近所のタイムズスクエアのビルで露出型のエレベーターが落ちて、地上の十数人にけがをさせ、うちひとりのおばあちゃんが死亡したとテレビが伝えていた。朝から通行止めだったが、夕方近くに通りかかったときは既にクルマを通していた。
「事故で近所の店が当分開店できなくなったんだって。集団訴訟ものだね」
 と話す。
 マミさんは、マンションから歩いていける距離にあるタイムズスクエアをしばしば通っているという。まかり間違えばぺちゃんこだった。
 時間が時間になり、ともかく午後六時半過ぎにマンハッタンの一流寿司店へ。あか抜けた美人の日本人ウエートレスが数人いた。われわれのテーブルについたのはメゾソプラノのオペラ歌手のモモコさん(仮名)だった。
 ここでビールと日本酒と豪勢な刺身やお寿司でご機嫌になる。生牡蠣がとろけるようにおいしい。三時間近く、飲めや笑えの大騒ぎ。お代のほかに八十ドル!のチップを置いてマンションへ帰還とあいなった。店を出る前に、モモコさんとデートの約束をする。
 午後十時ごろになって突然、ミスター・カクマとマミさんがボストンへ行くことになった。話題作「文明の衝突」の著者、サミュエル・ハンチントンにインタビューするのだ。マミさんはぶつぶつ言いながらミスター・カクマの後ろを追って部屋を出ていく。映画「ホームアローン」の主人公になったように思ったぼくは、メキシコのビールを台所で発見、二本を無断で飲む。疲れてひとりソファで眠る。ほんと疲れた。電話が深夜に三本も。これではパソコン修理ロボットと留守電の代用品ではないか。
「ま、いいか」


 ▼ニューヨークっ子と連続デート

 四十二日目(七月三十日・木曜日) 高層マンションの部屋でひとりっきり。振り返ればベランダのガラス戸から摩天楼が丸見えだ。ガラス戸を開き、ベランダに恐る恐る足を踏み出してみた。あれー、ベランダが壁から突き出ている。空中浮揚の恐ろしさに目がぐるぐる回ってきた。ハドソン川の遊覧船が眼下に小さく見える。ベランダにはビアガーデン風にテーブルとイスが置かれていたが、こんなところでビールを飲む人の気が知れない。
 午前十時、ふとベランダを見ると作業員が外壁で宙づりになって作業をしていた。セーフティベルトをしてはいるが、こんな高いところで怖くないのだろうか。できたら高所恐怖をなくするこつを伝授願いたい。話しかけるが英語が通じない。スペイン語をしゃべるラテン系の人たちだ。

 午前十一時半、昨夜の寿司店のアルバイトのモモコさんからデートの電話が来た。こっちの女性は積極的だ。
「六五丁目(のなんたらかんたら)を左折して迎えに来てね」
 といわれても、迷子になるに決まってる。
「そっちからタクシーで来て」
 と頼んだら、一時間後になってようやく部屋をキンコーン。化粧に手間取ったらしい。薄手のブラウスとミニスカートを着て登場だ。かっこいい。
 さっそくモモコさんを助手席に乗せ、トーラスを運転して彼女の友だちのマキコさんを迎えに行く。夫は証券マン。三人でバルサザール(Balthazar)というかっこいいビストロへ。高級店らしい。少し高そう。混雑していたので、バーのカウンターでコーヒーやカクテルを飲みながら空席待ち。
 二七歳のモモコさんは、京都の大学と大学院で声楽を専攻、サンフランシスコで半年、NYCで一年間暮らしている。オーディションに合格、オペラ歌手としてしばしば舞台に立っている。
 彼女のオペラ観は
「オペラは、音楽・舞台装置・衣装による総合芸術なのよね」
 ということだった。
 同感だ。そしてオペラは聴衆にカタルシスをもたらす。聞く人すべての罪を赦し、魂を解放する力があるように思うのだ。
 昼食のテーブルでビザ(入国査証)とグリーンカード(永住権)のことが話題になった。
「グリーンカードがあると、留学生向けのFビザを定期的に取り直す必要はないし、アメリカからオーストリアや日本などの外国にいつでも出国できて、また帰ってこれるの。スチューデントビザをとるために、行きたくもない学校へ行く必要もないし、授業料も払わずに済むのよね」
 とモモコさん。

 ここで参考までにアメリカが発行するビザ(非移民)を紹介すると、主に次の通りである。

Aビザ……外交官とその家族
Bビザ……商用、観光による短期滞在者
B−1は商用ビザ、B−2は観光ビザ
Bビザによる滞在(I-94滞在許可)は最高六ヵ月
Dビザ……船舶や飛行機のクルー
Eビザ……企業の管理者とその家族
E−1ビザが商社や旅行代理店、銀行などの管理職におなじみ
Fビザ……国公認のアメリカの学校にフルタイムで留学する学生とその家族
留学生にはF−1ビザがおなじみ
アメリカの学校の入学許可証はI-20と呼ばれる
Fビザの学生には、原則として就労は許可されない
Gビザ……合衆国にある国際機関へ勤める外国政府職員およびその家族
Hビザ……合衆国で臨時職として勤める専門職者
Iビザ……ジャーナリストや新聞・テレビ・出版関係者、その家族
Jビザ……大学研究者、職業研修生ら国家同士の交換留学生とその家族
Kビザ……合衆国市民と結婚する目的で入国する婚約者とその未成年の子供
Lビザ……企業の管理職や特殊技能職者、その家族
L−1ビザ(企業内転勤ビザ)がおなじみ
Mビザ……職業訓練や技能修得の学校に短期留学する人とその家族
Oビザ……芸術、教育、科学技術、ビジネス、スポーツなどで
国内・国際的に卓抜した能力がある人とその家族、随行員
Pビザ……芸術、芸能、スポーツの分野で
興行、イベント、大会などに参加する人とその家族ら
Qビザ……米司法局の認可による交換プログラムによる入国者とその家族
Rビザ……宗教関係者とその家族

 なお、観光や一時的な商用でアメリカを旅行する場合、往復チケットを持っていればビザなしで滞在できるが、その最長滞在期間は九十日間までとなっている。

 モモコさんが求めるのはOビザかグリーンカードだが、Oビザへの道はあまりに険しく、抽選により取得するグリーンカードには運不運が伴う。

 モモコさんが帰ったあと、トーラスの後部座席にひとり残されたマキコさんは
「グッチでバッグの修理を頼みたい」
 とご所望だ。
 結局ぼくは「あっしーくん」をやらせられることになり、グッチまで運転し、グッチの前でタウンウオッチングをしながら二十分間を過ごす。NYCのグッチに入るのは白人か日本人だけだ。これは二十分間の観察結果である。
 次に肝試しが待っていた。マキコさんをマンション前で降ろしてからトイレを借りようと、下町の雑貨店へ入ったのだ。
 ビールやたばこを買ってからレジのラテン系の男に
「レストルームを貸して」
 と頼んだ。すると彼は、
「ダウンステアズ」(階下だ)
 と言いながら
「それでも行くか?」
 とぼくの目の中をのぞきこむので、あまり深く考えずに
「シュア」(もちろんだとも)
 と応じてしまった。
 で、別の若い男がぼくを案内した場所は、薄気味の悪いことに、小路の路面の鉄板を二枚観音開きに開いた地下室だった。この下へ入るのだ。そこはビールや食料の倉庫だった。その奥がトイレ。腐ったような地下の暗闇。ぼくはそこに潜りこみながら、さっき日本に国際電話したとき、妻が
「ニューヨークは危ないから気を付けて」
 と警告していたのを思い出した。
 鉄板を頭の上で閉じられたら一巻の終わり。閉じこめられ、財布を奪われ、殺されてもだれにもわからない。しかし無事に用事は終わり、男にお礼を言ってさいなら。死ぬほどスリルがあった三分間だった。
 異性にもてる日だ。午後六時二十分にモモコさんの友だちのオペラ歌手、サナエさん(仮名)から電話が来た。
「モモコさんから聞いたんですけど、日本からいらしたんですって? わたしサナエです」
 とまず電話で自己紹介。
「夕食をごいっしょしませんか?」
 と誘ったらOKだった。ニューヨークで美人のオペラ歌手と二人っきりでディナーだなんて。ぼくは左の頬を思い切りつねって
「痛い。夢ではないのだ」
 とつぶやくのだった。
 十分後、五一丁目の交差点にて待ち合わせをする。酒酔い運転を避けるためタクシーでそこへ行くと、色がすごく白いぽっちゃりした人が黒人の若者と談笑していたのですぐわかった。日本人女性の多くは白人よりずっと色白だ。白人の肌の赤っぽい白さと違って、日本人の色白はどこまでも限りなく白いので非常に目立つ。特に黒人と一緒だと白い肌が際立って見える。
 サナエさんと二人でハドソン川のほとりのシーフードレストランへ。夕陽を見ながらビールが飲めるというモモコさんのお勧めによる。モモコさんから何もかもお膳立てしてもらったような気がする。モモコさんは得体の知れぬ妖しい女だ。
 ビールをサオリさんと二人で飲みながら談笑、初めは少し上がって
「音楽とは」
 などとオペラ歌手相手にガラにもないことを口にしていたが、食べ放題のサラダやエビや貝をいただいているうちに本来の自分に戻っていた。つまりジャーナリストらしく彼女の身の上話に耳を傾けたのだった。
 二六歳の彼女はボストンに二年、NYCに八年滞在している。高校生のころからの滞米生活で、いまマンハッタン音楽院で声楽に磨きをかけている。大きなホテルにある著名な料亭でVIPを部屋に案内する係のアルバイトもしたことがあり、
「首相になる前の小渕氏からご苦労さんと声をかけられたのよ」
「ヒラリー夫人も見たわよ」
 と次々に有名人の名前を列挙してみせた。身のこなしが貴婦人然として、ものおじをしないので、VIP案内係の抜擢は、さもありなんと思った。
 午後九時過ぎまで談笑、レストランへ河岸を換えて彼女はフルーツサンディ、ぼくは赤ワイン。彼女はぺろり。ぼくはワインをちびちび。彼女の頬はさっきのビールで赤く染まり、とてもかわいい。なんたってサナエさんはオペラ歌手、
「声帯に悪い」
 というので早めに彼女をアパートの前まで送り届けた。


 ▼ハドソン川の橋を渡るとニュージャージー州

 四十三日目(七月三十一日・金曜日) 日本人が時差を計算すると決まって狂うと聞いた。引き算するところを足し算してみたり、夏時間を忘れてみたり、単に日本時間に合わせたわがままだったりするのだ。午前一時前後、日本からしばしば電話が入る。ソファで寝ているぼくは、寝汗をかきながらそのつど目を覚ます。週刊誌の編集者と、月刊誌のフクヘン(副編集長)だ。
 ミスター・カクマとマミさんの二人は午前一時半過ぎにサミュエル・ハンチントンの取材を終えてマンションに帰ってきた。デジタルカメラに収録されているハンチントンのポーズ写真をさっそくインターネットで東京へ送信する。非常にきれいに撮れている。これなら大丈夫。三枚ずつ三回送信する。
 ハンチントンの著書は日本人学生などの間でもひっぱりだこらしい。ぼくがみたところ、ハンチントンのいう文明の衝突とは、事実上、宗教の衝突を意味する。あの書の「文明」をすべて「宗教」に置換するとわかりやすく読める。
 送信作業が終わったあと、ソファをベッドにして眠る。ミスター・カクマは床に。マミさんは徹夜で仕事。
 午前九時半ごろ起床。このころやっと高いところに慣れ、ベランダから見えるNYCの下界の景色を楽しめるようになってきた。最初は高所恐怖症でぞっとしていたのだ。もっとも英語で「ばかほど高いところが好き」という成句のジョークがあるのだが。自由の女神がハドソン川のかなたに小さく見えた。
 ミスター・カクマが目を覚まし、
「(ろくに英会話もできない)外国人がひとりっきりでクルマで南部を横断してニューヨークへ来るなどというのは誰もしたことがない。これは冒険だ」と誉めてくれた。
 わきでTVの日本語ニュースを見ていたマミさんが、
「きゃー、一ドル百四十四円だって。ハドソン川の向かいに引っ越さないと暮らしていけないわ」
 と悲鳴を上げた。
 マンハッタンで二千ドルの家賃のマンションが、ハドソン川の向かいのニュージャージー州では千五百ドルで借りられるという。
 ニューヨークにお別れするときが来た。その前に腹がぺこぺこになり、ハドソン川を隔ててマンハッタンの向かいのニュージャージーへ昼食へ行くことになった。ミスター・カクマはポンティアックで先導、万一はぐれたときのためにマミさんがトーラスの助手席に。
 ジョージワシントン橋を渡り、ヤオハンの敷地内にある「松島」という日本料理店で幕の内を食べる。大きなお店だ。ピアニストの卵だという韓国人の女性アルバイトがわれわれのテーブルについた。英語はぼくとどっこいで、ニューヨークで鍛えた彼女には韓国語なまりが全然ない。そしてハリウッド映画で鍛えたぼくには日本語なまりがない。
 食事をしながらハドソン川をながめ、船長資格を持つぼくは、つい
「ここで遅刻しそうな通勤客相手に高速渡し船のアルバイトをすると儲かるぞぉ」
 とばかな話をする。
 一人五ドル、一回に二十人を乗せて朝に五往復、夕方に五往復で一日一千ドル、月に三万ドル、年に三十六万ドル(ざっと五千万円)の売り上げになる勘定なのだが、さてどうだろう。
 マミさんも珍アイデアを発揮して
「電子メールのアドレスって、ときどき変えるでしょ? で、消息不明になったりすると困るから、電子メールの引っ越し自動転送サービスというのはどうでしょう」
 と提案する。
 ぼくはこのアイデアを、ドゥ・イット・ユアセルフの引っ越しレンタルトラック業者のU-HAULに引っかけて
「その電子メールの引っ越しサービスはおもしろい。E-HAULというネーミングではどうだろう」
 と提起してみたが、なにかブラックホールにメールが吸いこまれて行方不明になりそうなイヤな雰囲気が漂い、食事のお座敷がしらーっとした。
 この日本料理店で、おみやげに握り飯四個。コンビニの握り飯風にノリだけ別になっていた。
 午後三時二十五分、二人はワシントンDCへ短時間で行ける高速道路のターンパイクまでぼくを送ってくれた。お別れのときがきた。レストエリアの駐車場で別れるとき、マミさんは、大衆の面前なのに
「ハグだから」
 と言いながらぼくを抱きしめた。
 ぼくは緊張のあまり立ちすくんでしまったが、 後日、辞書で調べてわかったことは、ハグ(hug)というのは挨拶代わりの抱きしめかただったのだ。アメリカの街角では恋人でも夫婦でもない男女が頬と頬をくっつけて挨拶をしている光景をしばしば見た。母親が小学生くらいの息子の唇に口づけしているのを見たこともある。異性の相手を軽く抱くという行為は、アメリカでは特に取り立てて騒ぐほどのことでもないのだが、それでも日本人にはカルチャーショックをもたらす行為だった。
 午後三時三十三分、サービスエリアでガソリンを入れ、冷たいコーラやおしぼりの準備が整ったところでワシントンDCへ向けて起動だ。三時五十九分、ニューワーク空港の横を通りかかった。凄い。真上に離陸態勢の飛行機がいる。翼の影が道路に映って暗くなるくらいだ。右に見える滑走路が隣の車線みたいな感じがする。旅客機が着陸してきた。
「翼がクルマにこすれるよー」
 と独り言をいう。
 ターンパイクは確かにニューヨークとワシントンDCを結ぶ最短の高速道路だが、走り心地はあまり良くない。みな超高速で走るうえに車間距離はぎりぎりだ。道路標識が極端に少なく、たまにターンパイク・サウスとか、デラウエアとか、スピードリミットは時速六十五マイルとかが、ちらちらっと出るくらい。少なくともこのあたりは非常に単調な道路だ。半ば睡眠状態にはまり込み、気がつくと三十マイルも南へ来ていた。三十分も半睡眠状態で走ったことになる。危険だ。睡魔地獄だ。死の淵一歩手前だ。
 午後六時五十八分にトールゲートへ着いた。四ドル六〇。日本だと大宮から浦和くらいの感じの通行料金だが、アメリカではとてもエクスペンシブに感じる。
 料金所の白人の若い男が
「テイクケア」
 と言ってくれた。
 またすぐトールゲート。ここでは不愛想なおっさんから二ドルふんだくられた。愛想を良くしてよん。
 午後七時十八分、ペンシルベニア州のウィリントンという街に着いた。ダウンタウンの通りはどこも端正だった。ウィリントンを見て満足してからルート95へ出る。
 午後七時四十七分、給油を終えてボルティモア方向へ再出発。あっという間にガスがなくなるなぁ。四リッターカーで時速百三十キロだもんなぁ。当たり前かも。
 午後七時五十一分、ルート95でまたトールゲートに遭遇。このあたりは、ほとんど有料道路だ。カリフォルニア州ではみなタダだったぞ。
 突然、
「ぎゃー」
 という警告音が二回もなる。これは道路の溝。つまり眠気防止。
 午後七時五十三分、メリーランド州へ入る。夕陽がオレンジ色の光の矢を放つ。空は快晴。画家だったら絵筆をとるだろうな。
 午後八時二十分、クリスタルインにチェックイン。直訳すれば「結晶の宿」だ。名前も外観も感じがいい。キングサイズのベッドがでんと居座るでかい部屋。先日のスイートに次ぐでかい部屋だ。バスルームも広い。冷蔵庫や電子レンジ、高級VCR(ビデオデッキ)もある。これで一泊八十七ドルだ。過去のアメリカ旅行で都会の観光ホテルに二百ドル以上も出して宿泊していたのがばかばかしくなってきた。レンタカー料金を奮発しても、ダウンタウンから少し足を延ばせば半額以下だからすぐ元を取れる。室内プールまである。室内プールといっても各自の部屋に一個ずつあるのではなくて、ホテルの中庭にあるプールである。まぎらわしいので自分勝手に館内プールと呼ぶことにする。
 ここ数日というもの、ヒヤリングが上達して、アメリカ人同士が交わす英語の会話がありありとわかる。内容が込み入ってくるとお手上げだが。


 ▼ケネディの足跡を逆にたどる冒険旅行に幕

 四十四日目(八月一日・土曜日) のんびりと走っていたら、いつの間にか首都入りを果たしていた。午前九時五十分にクリスタルインをチェックアウトし、寄り道しながら気の向くままクルマを走らせていたら、二時間後、気が付くとそこはワシントンDCだった。
 運転しながらニューヨークで巡り会ったモモコさんのことをぼんやりと思い出していた。彼女は華やかな有名オペラ歌手を夢見ながらチャンスがなく、かといって寿司店のウエイトレスに甘んじることもならず、学生アルバイトという不安定な身分のまま運命が変わるのをじっと待ち続けているのだ。無名オペラ歌手の彼女にとって、グリーンカードというのは天国行きの切符のようでそうではなく、実のところは有名歌手という夢の代用品なのだ。
 この日の午後、首都ワシントンを二時間かかって案内してくれたタクシードライバーは、いともたやすくグリーンカードを取得したという。彼はインドから来たシーク教徒で、名前はカブール(Kabul)といい、一九九一年に渡米して一九九三年にグリーンカードを取得した。一九九九年か二〇〇〇年には市民権を得る見通しだという。他のタクシードライバーにも聞いたが、だいたいこの程度の期間でグリーンカード、そして市民権を得ていると言っていた。
 考えようによっては、アメリカ合衆国でとりあえずのタクシー運転手になり、しかるべきのちに歌手や事務員に転向するという手もあるのだが。

 少し道に迷ったが、ルート50で午後零時四十九分にワシントンDCのダウンタウンに入る。この街はどこが中心部でどこが郊外かさっぱりわからない。ちっとも大都会らしくない。それほど閑散とした街並みとなっている。しかしMCIセンターへの道路標識で現在位置が判明した。
 NEニューヨークアベニュー1001という場所のパーキングで車を止める。ここは終日六ドルの駐車料金だ。最初は隣で駐車しようとしたが、整理係の男性が、
「あっちはこっちより二ドルも安い」
 と言いながら親切に案内してくれたのだ。商売っ気のない男だ。
 カメラとハンドバッグだけを持ち、午後一時すぎに街へと歩いて出発。近くのワシントン・グランドハイヤットという豪華ホテルで昼食をとる。そしてはす向かいのクレスター銀行(Crestar Bank)で百二十ドルの現金をシティバンクの口座から引き出す。観光資金だ。
 午後一時五十五分、ホテルの前にいた金色のタクシーに乗って観光開始。まずホワイトハウスへ。公園みたいなところでタクシーのドアが開いた。
「え? ここがホワイトハウス?」
 といぶかりながらカメラを担いで小走りに行くと本当だ。ホワイトハウスだ。
 日本の迎賓館に似てグレーとピンクが混じった色がホワイトハウスの輪郭ににじんでいた。なんと美しい建物だろう。アメリカ合衆国の権力者たちの夢と試練をそこに感じ、甘ずっぱい思いでいっぱいになる。
 タクシーで大回りして反対側へ出た。こっちのほうが見慣れた光景だ。大統領の就任式などでテレビに映るところだ。
 さらにワシントン・モニュメントという尖った石の塔を見てからリンカーン・メモリアルへ。あぁ来た。ここだ。あの六百九十メートルもの長さのリフレクティングプールが目の前にある。映画「フォレストガンプ」に登場する人工池だ。感激。直射日光で暑くてノドがカラカラなので固くてすっぱいアイスを露店で買ってかじる。
 ポトマック川向かいのジェファーソン・メモリアルを見ながら
「これが桜の木、大半が日本から贈られたものです」
 という説明をタクシードライバーから受けつつ、橋を渡ってアーリントン墓地へ。
 アーリントンでは国のために死んだ無数の人たちの墓が胸を打つ。観光客に尋ねながらJ・F・ケネディの墓を探し当てた。炎が燃えている。娘さんと奥さんの名前もある。華やかだが悲しみと愛をたくわえ生きて死んだケネディの思いでいっぱいになる。思えばダラスからワシントンDC、ニューヨーク、そしてまたワシントンDCと、ケネディの足跡を暗殺から逆にたどった十三日間のぼくの冒険旅行もこれで幕を閉じることになる。あしたはシカゴ。
 ポトマック川の反対側にとんぼ返りをして葬儀の終わったUSキャピトル(議事堂)を見る。階段は急で、みな息をぜいぜい。ぼくもぜいぜい。
 スミソニアンでタクシーを解放した。この直前、ドライバーからワシントン・ナショナル空港への道を開示される。いわく
「九thアベニューを川方向へダウンする。トンネルを通って395サウスをテイクし、右レーンをステイ・インし、橋を渡ったら2ndエグジットを出れば空港だ」
 日本語に直訳すればこのような説明になる。あす空港へアクセスする際の不安はきれいに消えた。ちなみにテイクとはその道路に乗ること、ステイ・インとはその車線で走行し続けることを意味する。
 午後三時五十分、ミスター・カブールに二時間分の七十ドルに加えてチップを二十ドルはずんで別れを告げる。
 スミソニアンの建物を突っ切ると、そこはモニュメントとキャピトルの長い距離を芝生がつないでいた。ここを往復するだけで半日観光をすることができる。最初からわかっていれば真っ先にここへ来たのにね。モニュメントの塔の下でアイリッシュのメロディーと思われる悲しみを帯びた演奏が野外ステージで行われていた。
 さてスミソニアンへ。スミソンの剣にみとれ、さらに隣接の宇宙博物館へ。宇宙ロケットやミサイルなどが展示されている。いずれも入場は無料だった。
 午後五時十五分、パキスタン人のタクシーでトーラスを止めてある駐車場へ。レンタカーで空港へ。予行演習だ。拍子抜けするほどすんなり空港へ。レンタカーリターンの場所も見つける。
 あちこちぐるぐる回った結果、ポトマック川からそう遠くないところで懐かしのルート1を発見、華やかなショッピング街やホテルが並ぶクリスタルシティをゆっくり走り抜けてから道路の反対側へ。ここで格安のデイズインをすり抜けて、やや高級感のあるハワード・ジョンソンへ。ここなら空港のすぐ近くなので、寝坊しても大丈夫。一泊七十九ドルでキングサイズベッドだ。
 部屋はとても広く、応接セットもある。広さはこれまでで最大だ。床に五、六人は寝れる、などと考えるのは雑魚寝が当たり前のジャーナリスト魂のせいか。


 ▼シカゴの摩天楼に圧倒される

 四十五日目(八月二日・日曜日) 朝、カーテンを開くとポトマック川のほうからまばゆい朝日が差しこんできた。
 きょうは午後一時十分発のアメリカン航空AA517便に乗ってシカゴへ行く。いま午前九時二十分。飛行機に搭乗するためいったんクルマをハーツ社に返却しなければならず、増えた荷物は一定程度捨てねばならぬ。買うのは得意だが、捨てるのは不得手で困ってしまう。
 午前十時二十分、キャピトル側のポトマック川岸のフィッシャーマーケットで生きたカニや魚が並ぶ魚屋をひやかす。フィッシャーマーケットから河畔沿いにちょっと足を延ばせば、そこは森に囲まれた学生街。引き返して橋を渡れば、そこはもうナショナル・エアポート。ダラスから長い間付き合ってくれたトーラスのマイレージは千七百八十三マイル(約二千九百キロ)を記録していた。
 余裕しゃくしゃくで空港に到着するものの、アメリカン航空のチェックインが長蛇の列で、このため出発時刻三十分前になってもまだチェックインができない。後ろにいた同じシカゴ行きの男性を振り向いて
「これは難しい状況だ」
 と話し合う。
 その直後、アメリカン航空の女性社員が
「ワン・テン(一時十分)、シカゴ?」
 と大声で尋ねたので、二人で手を挙げ、前へ出る。すったもんだの挙げ句、ようやくぎりぎりでチェックイン。
 搭乗券を手渡しながらカウンターの彼女は
「今すぐ行って」
 という。
 そこで小走りにゲートを探して午後一時ジャストに機内へ入った。機内食の代用品のペーパーバッグが搭乗口の右脇に積まれていて、それをひっつかんで席へ。この席は左翼側の三席で、左隣には金髪女性が二人。静かで、ぼくと何の違和感もない。離陸直後三十分間、泥のように眠る。
 機内で左目に網膜剥離を起こすけがをした。午後三時十分、シカゴ・オヘア空港に着陸した直後のことだ。時差のため機内で腕時計を一時間遅らせて二時十分にする。そしてシートベルトの着用サインが消えてすぐ頭上の荷物を下ろそうと、妻から借りた重いカバンを引っ張ったとたん、ストリップから手がはずれ、自分の右手で左目をパンチしてしまった。眼球がつぶれたような痛みに襲われ、しばらく立ち上がることもできなかった。
「ぼくの目、どうなってる?」
と隣の女性に聞くと、
「血は出ていない」
 と教えてくれた。すなわち目玉はつぶれなかったのだが、痛いのなんの。それでも窓側の女性のバッグを凝り性もなく下ろしてあげたのだった。
 帰国後、強打した左の目は網膜剥離になっていたため、レーザー光線照射の手術を受けるはめになった。まるでボクシングの辰吉チャンピオンだ。
 午後二時半(中部時間)、空港に入ると目の前にハーツの窓口があった。そこで係の女の人にまた目を見てもらう。あっちで氷をもらって冷やせと言うので、ジュース売り場で氷をもらう。冷やしたらだいぶ楽になった。売り場の可愛い女の子からジュースを買う。小銭を渡したら手が触れ、とても温かく感じ、痛みが薄らいだ。
 ハーツレンタカーの担当女性はぼくに
「シカゴと結婚するまで待て」
 と変わったことを言う。へぇー。シカゴの空気に慣れろということかなぁ。アメリカの女性はときどき過激なことを言う。外のタクシー乗り場あたりでたばこを吸いながらひとときを過ごした。
 重い荷物を持って引きずってハーツの専用シャトルバスに乗る。十分ほど走ると「MSC 988」のライセンスナンバーの白いカムリがあった。いま九八年八月なので、ナンバーを覚えやすい。
 荷物を持ったりしてくれたシャトルのドライバーに三ドルのチップを渡した。彼はプードルを連れた若夫婦に五ドルくらいチップをもらっていたみたいだし。
 ぼくからチップを得た彼は
「I appriciate it.」
 と、ていねいなお礼を口にした。
 なのでぼくも
「You are welcome.」
 とていねいに言い、握手を交わした。
 彼は七〇歳くらいの仲睦まじい老夫婦にも親切にしていた。もっともこの老夫婦はチップを渡さなかったように見受けたが。
 白のカムリは、なぜか古めかしく小さく思えた。それはきっと、さっきまでワシントンDCで乗っていた赤いメタリックのトーラスの派手な光沢を見慣れた後の錯覚だったのだ。乗りこんでみてから感じたのだが、このクルマは貴婦人のように美しく、日本人のぼくにしっくりとなじんでいた。午後三時二十分、レンタカーでシカゴ・オヘア空港の構内を出る。
 午後三時三十八分、ルート190を降りて一路ダウンタウンへ。バックミラーを見ると、今になって左のまぶたがボクサーのように青黒くなっている。
 途中でルート190がすごい渋滞だったため、下の道に降りる。
 適当に走っていたらヒスパニックと黒人が多い楽しそうな街に差し掛かり、リカーショップを発見したので車を止めて入る。
 ラテン系の看板娘に
「ジャパニーズワインはありますか?」
 と聞くと少し頭をかしげて
「えーと……、あるはず」
 と親切に在りかを教えてくれた。同僚に少し冷やかされていた。アジア人のぼくは、このへんの下町ではすごく目立つのだ。
 黄色人種が白人の言葉の英語をはなすと「バナナ」と言われるらしい。皮は黄色、中身は白、というわけだ。しかし幸か不幸か、雪国育ちのぼくは色白なので、変色バナナ、ということになりはしないか。
 ここで純米酒の「芸者」と「月桂冠」を買う。一本五ドル九九セント。
 今夜の酒を仕入れたところでまたあてどもなく走り出す。寄り道はするものだ。何の変哲もない道路だと思って走っていたら、その道はテレビドラマと歌で有名なルート66だった。

ルート66は、シカゴからロサンゼルスまでの
二千四百四十八マイルを結ぶ大陸横断の道。
西部開拓の時代、馬車が二本の輪の跡を残して
シカゴとロサンゼルスの間を通っていたのがルート66の始まりだった。
その後、舗装され、
沿道のセントルイスやオクラホマシティやアルバカーキに
繁栄をもたらしたが、
やがて直線で最短距離を結ぶハイウエーにその役割を奪われ、
一九八〇年代半ばまでに花形の座を降りた。
いまルート66は、古き良きアメリカの象徴としての名をとどめながら
街と街を結ぶ生活道路として存続している。

 このルート66を走っていたらウオールグリーンズを見つけ、地図を買う。カウンターの女性に聞いたら、ここはシカゴのダウンタウンのかなり南だった。
 カウンターの女性店員に道を聞くと、
「摩天楼のビジネス街のザ・ループ(The Loop)に行くなら、ハーレム・アベニューをテイクして左に曲がるといいわよ」
 と説明してくれた。
 しかし客の女性のひとりが口をはさんで
「違うわよ、ハーレムだと遠回りだわよ」
 と主張した。
 どうなってんの。しかしこの議論により、ハーレムという妖しい名の道路を深く銘記する結果となり、あとあと土地勘をつける意味で便利だった。

 人を神の住む丘にまで高める崇高さ。シカゴの摩天楼の第一印象は崇高さだった。午後五時五十五分現在、クルマのフロントガラスから見上げる摩天楼の建築美にぼくはすっかり魅了されている。建物の壁面には絵画が描かれていて、建物がみな自分の個性を主張している。それはまさしく威容だった。涙が出てきた。来てよかった。あとで知ったが、シカゴのダウンタウンは「建築の博物館」と呼ばれているのだった。
 シカゴに対する先入観は一瞬で捨てざるを得なかった。たとえばアル・カポネ、ギャング、通行人に注ぐマシンガンの流れ弾、禁酒時代の暗黒街、煙突だらけススだらけの工業地帯。そんなマイナスイメージは、どこをみてもない。さすがスザーンが愛しているといっていたシカゴだ。
 摩天楼街と道路をたった一本隔てたところにミシガン湖(気のせいか地元っ子が発音するとマシンガン湖と聞こえる)のリゾートエリアがある。この動と静の対比は、口ではとうてい説明できない。人を威圧する摩天楼、そしてすぐその近くの水辺でリラックスする人々。そしてビジネス街のすぐ隣に数千隻、いや数万隻の外洋ヨットのマストが林立しているだなんて信じられない。こういう光景を職住接近でなく、職遊接近というのだろうか。
 少し走ればまた全く違った顔がある。刻一刻街の顔が変わっていく。ダウンタウンをぐるぐる十回くらい回らないとこの美しさの全容は分からないかもしれない。高層ビルが偉容を誇っているという感じがする。ビルの谷間で自分が小さくなったかのよう。空気はやさしく居心地がよく、まさしく美と愛にあふれたシカゴだ。
 個性をつぶし柳の堀もつぶし、存在感を希薄にしてきた新潟市が最後に得るものはなんなんだろうか! この自己主張の強いシカゴを見ていたら故郷のことをいとおしくも哀れに思えてならなかった。
 ダウンタウンの少し北はウォーターフロントに多数の市民が出て、水着やタウンウエアなど思い思いの姿で泳いだり日光浴をして生活をエンジョイしている。運転席の窓ガラスを開いてシカゴのにおいを車内に入れる。
 ハワード・ジョンソンに泊まりたい。HOJOはハワード・ジョンソンの略だが、どこにあるのかわからないのであきらめる。

 さらに北へ行くと楽しそうな下町の街路に出た。セブンイレブンでホットドッグを一ドル三十九セントで買う。
 アメリカでは、
「何は無くてもまずケチャップを」
 というのは本当だった。アメリカ人はほんとうにケチャップが大好きらしい。ハンバーガーでもホットドッグでも、どっさりかけて真っ赤にする。マスタードで黄色に染める人も多い。
 甘い甘い白砂糖をたっぷり塗った薄黄色の砂糖パンも一個いただいた。これはバナナの逆パターンだ。白人が日本語をしゃべると「白砂糖パン」と呼ばれるようになるかもしれない。
 駐車場のカムリの中でホットドッグを食べるとおいしくて生き返る。マスタードとタマネギのみじん切りをまぶすと、さらにおいしい。そんなぼくを、通行人がわざわざ腰をかがめてじろじろとのぞき込む。
 午後七時ちょうど、元気百倍になって再びダウンタウンへ向かって南下することにした。宿を見つけるまではと、どこまでもルート55を南下する。突堤に囲まれた内水面ではヨットとボートが芋洗い。外の湖面ではヨットが波に揺れている。全部で何万杯あるのだろう、凄い数だ。
 自分の酒好きを棚に上げるようでなんだが、シカゴは酒飲みが多いみたいだ。そこらじゅうにリカーショップがある。異常な多さだ。夜のシカゴで酔っぱらいを見ることがなかったので、自宅でテレビでも見ながら飲んでいるのだろう。
 午後七時三十七分、目的もなくルート55サウスをテイクしている。かなり行ったらハーレム・アベニューがあり、モーテルを発見したので泊まろうと入ると、彼女を車内の助手席に残した若い男性が後ろに続き、早くしろとせかす。
 凸レンズのメガネの女主人が
「六十二ドル」
 と金額だけを宣言した。
 しかし、なにかいやな気持ちがして、凸レンズのばあさんが下を向いたすきにトンズラする。思えばあれはラブホテルだったのだ。看板も壁もドアもピンク一色だったし、若い男性が焦っていたし。
 高速に乗らず適当に普通の道を走ると「Super 8 Motel」という看板を午後八時二十分に発見。楽しそうな女性二人がここ「スーパー8モーテル」のカウンターにいて、頼むとなんでもしてくれそうな気がしたのでここに決める。一泊五十五ドル。渡された部屋のキーは三階の308号室だった。
 フロントで二人の女性に
「持参のジャパニーズワインを温めたい」
 と頼むと、
「あー、サーキ(日本酒)ね」
 とうなずき、リネンなどが置かれている事務室の奥まで入れてくれた。そして日本酒を電子レンジでちーん。一分半で人肌かんになる。
 女性のひとりに飲ませると
「うーん」
 とうなったが、しかし飲み干す。
 もうひとりの女性は少しなめただけで
「おえーっ」
 と顔をしかめていた。
 日本酒はクセとにおいがあるからなぁ。おかんに使ったコーヒーサーバーはきれいに洗って一時間後に返す。
 インターネットをチェックをすると、ニューヨークのマミさんからメールが来ていた。
「堤さん、PC絶好調です。本当にありがとうございました。デジタル画像のインターネット送信も大好評です。なんだか仕事の幅がぐんと向上したかんじです。とても満足しています。このあとシカゴの旅がまだ残っていらっしゃるとのこと、どうかお気をつけてお元気でね。日曜日、モモコちゃん、サナエちゃんたちと、メッツの試合を見にいきます。野茂が先発登板します。それでは、堤さん。さびしくなったら、お電話してね。NYのマミでした」


 ▼ウィスコンシン州に行きそびれる

 四十六日目(八月三日・月曜日) モーテルを出て右折し、三つ目の信号でハーレム・アベニューにぶつかるので、そこを左に曲がり、ルート55でノースをとる。これでザ・ループへ行けるはず。朝から曇り空だと思っていたら、小雨が降り始めた。
 シカゴのハーレム・アベニューはなぞだ。みんながなぜかその名を口にする。ハーレム・アベニューの角にはお化け屋敷まであった。

 カーラジオでアナウンサーがしきりに
「Y2Kプロブレムが深刻だが、解決がまだ十分ではない」
 ということを話している。
 Yはyear、2Kは2掛けることのK(キロメートルなどのキロ、つまり千倍)で二千、プロブレムは問題、だからY2Kプロブレムとはコンピューターの二〇〇〇年問題のことを意味する。
 修繕されていないコンピューターのソフトウェアは、年月日の年が〇〇になると一九〇〇年なのか二〇〇〇年なのか区別できない。だから、一九九九年十二月三十一日の午後十一時五十九分五十九秒の一秒後が危ない。コンピューターが誤作動を起こすと危険だ。だからこの時間帯は飛行機やエレベーターに乗らないことに決めた。エレベーターといえどもコンピューターで時々刻々運行管理がなされており、そのときが来たらプッツンとなって止まり、扉が開かず閉じこめられる恐れすらある。

 ルート94ウエストを走る。午前九時三十八分、ウィスコンシン州のミルウォーキーをターゲットとしてとらえた。あのビールの古典的コマーシャル「ミュンヘン・サッポロ・ミルウォーキー」で有名なビールの一大産地だ。
 ワシントンを後にして、ようやく修羅場をくぐったといったんは思ったが、いやぁシカゴの道路は疲れるわ。車間距離は五十センチしかない。車間距離はバッファーのはずだ。緩衝地帯だ。インド・パキスタン紛争でいえばカシミールだ。これを縮めれば危険が迫る。
 午前九時四十八分、クック湖通り(Lake Cook Rd.)で高速を降りる。いったん左へ曲がる。ここで思ったのは、要するにアメリカ合衆国の街路はゴルフ場だね。看板も並木も建物もゴルフ場そっくりだ。
 シカゴではラサールバンクという銀行が多い。パキスタン人のタクシードライバーに聞いた話では、このほか、シティバンク、ナショナルファーストバンク、シカゴバンクが大きいとか。
 なんと。ここは、てっきりミルウォーキーだとばかり思っていた。しかし違っていた。まだイリノイ州のシカゴなのだ。とんでもない勘違いだ。ウィスコンシン州のミルウォーキーは、まだ遙か北ではないか。その証拠に、午前十時ジャスト、シカゴ・ボタニックガーデン(植物園)を発見、急きょそこに入る。素晴らしい広大な敷地。入り口に入ろうとしたら、ひげのおっさんに誰何された。
「会員か?」
 と聞くので
「ノー」
 と言ったら入園料を五ドル取られた。
 インフォメーションセンターらしきところで朝飯兼昼食をとる。四ドルあまりで、ほかほかしたオムレツを食べる。おいしい。コーヒーの大は一ドル。
 午前十一時、トランと呼ばれる園内周遊観覧車に乗る。がらがら。一番後ろの車両の真ん中に乗る。後ろに一組の家族連れ。なぜか感傷的になり甘悲しくなる。なんでだろう。ここ十年間、遊びを忘れ去って楽しみもなく、仕事で苦しいことばかり。そんなこんなで観光地に来るとそんな感傷的な気分になるのかなぁ。真っ先に右側に日本庭園をデザインした島が二、三あった。四十五分間、トランに揺られてのんびりする。写真とビデオを撮りまくる。珍しい銀色のポプラ、バラ園がきれいだ。動物園と違って静的だが、心をなごませるのには最適なのではないか。
 植物園を出るが、午後零時半になって、あまりにひどい渋滞で北上をあきらめる。逆方向へ。とうとうウィスコンシン州は見れずじまい。道路では、クルマの洪水の真ん中で黒人が三人も立ってモノ売りをやっていた。停車して買いたくても、後ろのクルマからぶぶーっとクラクションを鳴らされそう。
 ルート14をザ・ループへ。摩天楼が小雨の中で、もやって見える。午後二時十五分、摩天楼から少し外れたところで駐車場に入れた。ここは1256サウスミシガン/ルーズベルトだ。四・五〇ドルの料金に五十セントのチップ。わずかなチップなのに、ものすごく喜んでくれて、おまけにここの住所を見失わないようにと、アドレスを紙に書いてくれた。
 午後二時四十分、タクシーに乗る。ジョン・ハンコック・セナーへ。シカゴではセンターはセナーと発音する。ドライバーは黒人だった。彼がグリーンカードのことで教えてくれたのは「二プラス二プラス五」。つまり早い人は移民から二年、遅い人はもう二年でだいたいグリーンカードがOK。そしてあと五年でだいたい市民権を得る。永住権どころか、早ければ移民から七年後にはアメリカ合衆国の市民だ。余計なお世話かもしれないが、リストラ寸前の日本人は、ぜひ移民してタクシードライバーに。職種はあとで変えられる。五ドル半の料金に対してチップを七ドル手渡した。感謝される。
 隣の「神とタイラー」(Lord & Tylor)という百貨店へ。透明のエレベーターに乗る。白人の少女がしきりにボタンを押すがなかなか機能しない。ぼくがボタンを押すと一気に上昇を始め、彼女は三階で笑顔を残して立ち去った。
 この百貨店の七階で黒のカウボーイハット(ウエスタン歌手のガース・ブルックスがしているやつ)を三十六ドルで買う。クラッシュ・プルーフといって、丸めてカバンに入れてもすぐ元の形に戻るすごいやつ。そのときは鏡に映してかっこいいと思ったが、外に出てまた鏡に写すと、麦ワラ帽子と大差ないようにも見えた。まぁ日除けの帽子と思って使おう。カウボーイハットをかぶっている男性は、テキサスでさえたったの一回しか見たことがない。これほど派手な帽子は他にないのではないか。目立ちたい人にはぴったり。売場で探したところでは、色は黒か茶。さすがに赤はなかった。
 タクシーに乗り、かつて世界一の高さだったシアーズタワーへ。このタクシードライバーは、チップが少ないと思ったのか、二十ドル札を出したのに十ドル札だとごまかしてお釣りを十ドル少なくよこそうとした。インチキを指摘すると、このタクシードライバーは少しスゴミを見せたので不愉快になった。いやだなぁ。五十セントのチップで喜んでくれる人もいるのに。

 ところで、お金をけちれば必然的に下層階級に転落し、ふんだんにお金をふるまえば上流階級に近付くのは当たり前だということを今回の旅でひしひしと感じた。チップをけちると心がぎすぎすし、鷹揚にチップをたくさんあげているとほかほかした気持ちが続く。
 ここで断っておくが、チップはアメリカではサービス業に従事する労働者の生活給の一部または全部なのだ。つまりチップは決してお駄賃ではなく、義務に近いと思った。
 アメリカでは、収入をすべてチップに頼っている「チップ生活者」もかなり多い。チップ生活者たちの給与システムはお店によって異なるが、たとえばアメリカで知り合った高級レストランのウエートレスはこう言っていた。
「一応、三ドルが日給として支払われるのよね。でも税金ということで同額が差し引かれるので、実際には支払われることはないわけ」
 つまり、このウエートレスの収入は一〇〇%、お客からのチップによってまかなわれている。

 シアーズタワーで頂上に上る前に、感激的なシカゴの宣伝映画を見させられた。やはりシカゴの建築物は世界でも異色らしい。映画では二、三の著名建築設計家の名前を挙げていたので勉強になった。
 そしてエレベーターはまるで宇宙飛行のロケット発射を思わせるGがかかり、居合わせたアメリカ人たちと顔を見合わせ、
「ひゅー」
 とか声も合わせて楽しかった。
 午後四時半ジャスト、シアーズタワーの一〇三階に着く。映画の上映時間を除き前後合わせて四十五分も待ったかいがあった。景色がいい。少しもやっているのが欠点だが、きれいな景色だ。高いが、ニューヨークの高層マンションのベランダから見える景色に慣れて耐性ができたせいか、少しも怖くない。
 午後五時七分、タクシーでシアーズタワーからウオーターフロント見物に。
 ハーバーで「老人と海」さながらに、老人と少年が小さなボートに乗っていて、少年が日産の船外機の梶棒を握っていた。接岸寸前、どうするか見ていると、少年は巧みに五馬力の船外機にバックを入れ、一回でぴたりと埠頭に着けるのに成功した。ジョシュア・スローカムが帆だけでぴたりと着けて悦に入る航海記にそっくりだったので
「ベーリーグッド! You are like captain Slocam!」
 と叫ぶと、彼は
「誰それ」
 って感じ。
 少年に
「ジョシュア・スローカムの本を読んだほうがいい」
 と言ったら、乗っていたおじいちゃんは
「あの本はグッドブック」
 と返答し、また沖合に係留中の外洋ヨットへと戻っていった。
 いま午後六時八分、カムリで延々とシカゴの街を南へ向けて走っている。どこまでも黒人の街が続く。右へ九〇度曲がって西へ向かう。運転席からときどき左方向の街路を見るが、その果てはどこまでも続く街路の彼方。生まれ故郷の小路がどこまでも続くかのように感じた。これは懐かしさを超える濃厚なノスタルジー感覚だった。遥か彼方に永遠が見える、という感覚といってもいいかもしれない。
 damen Ave.に出た。ここの住民は少し所得が高そうだ。建ち並ぶ家の造りでわかる。ここの公園は半端じゃない大きさだった。端から見ると反対側の野球のダイヤモンドが霞んで見える。
 おっと、考え事をしながらちんたら走っていて、バックミラーを見ていなかった。ふとバックミラーを見ると、突然、後ろの若い黒人女性がばたーんと首を右に九〇度倒し、それから車線を変更してぼくを一気に追い抜いた。
「失礼をば」
 すげー派手なパフォーマンスだった。ぼくのちんたら運転にあきれたんでしょうねぇ。それにしてもぼくの視線を惹き付けてからパフォーマンスを演じるなんて、ものすごい超能力女だ。アメリカでは、概して黒人の超能力の見せ方(魅せ方)が過激だ。サンフランシスコのホテルのフロントデスクでチェックアウトしようとして黒人女性の前でクレジットカードのサインをしたとき、あーら不思議、自分でもうっとりするような流麗な英字の筆跡でボールペンを滑らせたことがあった。
「これ、だれが書いたの? ぼく?」
 と驚いていると、その女性はにっこりウインクするのだった。その人たちは能力を隠そうとか、そこはかとなくとかいうつもりは毛頭ないらしい。その点、白人はさりげない。そしてアジア人は能力があっても出し惜しみをして隠しっぱなしだ。
 午後六時二十五分、やっとバジェッテル・イン(Budgetel Inns)というモーテルを発見した。六十二ドルでキングサイズのベッドというコストパフォーマンスのいいモーテルだ。禁煙の部屋しかないといわれ、
「こっそり吸おう」
 と覚悟してドアを開いた部屋には灰皿があり、その灰皿の裏側には
「This is A non-smoking room」
 とあった。建前とホンネの世界ですな。粋な計らいじゃんか、と感じた。
 昨夜に続き、いま日本酒を飲んでいる。ちっともおいしくないし、体に悪いような気さえする。きっと体がアメリカになじんだから日本酒が合わないんだ。加えて、こっちで売っている聞いたことのないブランドの日本酒は、色がすごく黄色くて気色が悪い。
 テレビのCNNでは、しつこくクリントン大統領のスキャンダルを報道している。なにもここまで暴露しなくても、というほど念入りだ。不倫時代の責任をクリントンがひとりで背負いこんだみたいだ。後日、クリントンは教会で神の許しを乞うたと伝えられた。それは政治的パフォーマンスなのだろうか、本心なのだろうか。クリントンを信じたい気持ちでいっぱいだ。
 ぼくがアメリカ合衆国をぐるぐる回っているのを知っている女性から電子メールが来た。いわく
「堤さん、アメリカをほぼ制覇しましたね。堤さんが蒔いた愛の種は、きっといつの日か大きく育つことでしょう。お体に気をつけてお元気でね」


 ▼シカゴ市民は雷と友だち

 四十七日目(八月四日・火曜日) 変な日本酒を飲んだら二日酔いになった。二日酔いのせいか、アメリカで知り合った一部の人たちのことを不快感とともに思い出す。楽しいことが多かったが、不愉快になったことが皆無だったわけではない。紳士淑女の国アメリカでも、エゴ丸出しの人はいる。
 そんな人と接することがあると、そのつど
「人生はエゴとエゴのぶつかり合い」
 と思うようにしてきた。
 他人のエゴが勝つと、自分が嫌いになりかかる。自分が嫌いになりかかったら「人生はエゴとエゴのぶつかり合い」という言葉を思い出すと自信が戻ってくる。自分を大事にしようという気持ちが沸々と湧いてくる。これは、他人を踏みつけにする旧エゴイズムではなく、自分の自我を正々堂々と主張する新エゴイズムだ。
 正午を少しすぎたころ、やっとバジェッテル・インを出発する。夜、ホテルで映画「タイタニック」をはじめ三本も映画を見たら、宿泊費こみで九十九ドルも請求されてしまった。
 シカゴのダウンタウンをめざし一路ルート294を北へ。午後零時十九分、トールゲートに。パスとオートマティックとマニュアルのレーンのうち、マニュアルを選ぶ。ぼくはパスも磁気カードも持っていないから。四十五セントを払う。
 あーら不思議、ゲートをくぐったとたん大雨が降り出した。零時三十三分、またまたトールゲート。よくまぁこれだけカネをとるなぁ。この料金所の白人のおじいちゃんに無意識!で小銭のチップをどっさりやってしまった。アメリカの有料道路の料金所にはすごい人がいて、そんな人の前に顔を向けると、とたんに無性に小銭を上げたくなるのだ。東部では、持っている小銭を無意識にありったけ全部渡してしまったことさえあった。ぼくはしまいにはこういう誘惑に逆らわないようにした。無事故を祈るお賽銭だと思うようにしてきた。どのみち小銭ではないか。
 イリノイの八月の風はとても優しい。神の素顔、すなわち大自然もまた日本とは異なっており、そのスケールの大きさは言うまでもない。日本の自然美は繊細で……などとぶつぶつ考えていたら、
「わーすげえ」
 と叫んでしまった。
 ぴかーっと稲妻が目の前で光ったのだ。神の素顔が返事をしてくれたのだ。
 五秒後、
「ごろごろ」
 と空が震えた。子猫のごろにゃんみたいでかわいい。
 シカゴのダウンタウンへ向かいながら、
「これからシカゴのデパートで買い物魔になろうかなぁ。百ドルくらい使っちゃおうかなぁ」
 なんて考えてる。けち。ぼくがお金を遣うときの呪文は
「スティンジー・イズ・デインジャラス」(けちは命取り)
 なのだが。結局、お土産を含めて百八十ドル使うことになる。
 午後一時九分。さっき通りかかりのコンビニで買ったジュースとゆで卵一個でお腹が膨れた。ちなみに塩胡椒付きのゆで卵二個で九十九セント。
 シカゴのダウンタウンに近づいた。いまルーズベルト通り。
「わぁー、いま落雷」
 光と音の時差を計算すると、〇・五マイルくらいの近さだ。
 信じられないことに、近くで雷が落ちているのに平然と傘をさして歩いているラテン系の男がいる。黒こげになって死んでも不思議はないのに。中年のヒゲもじゃの男が傘もなく、帽子一つで金属製のステッキを突いて歩いている。笑う。
「金属ステッキに落雷したらどうするんだよう。ほんとにもう」
 この季節、アメリカに雷が多いのは承知しているが、いかに慣れたといってもね。
「神さまに愛されているので自分だけには雷が落ちない」
 と信じるのは理解できる。しかし、いかに信心深くても、危ないことはよしましょうよ。
 おー。水着を着て歩いている若い黒人女性がいた。これも笑える。繁華街であるルーズベルト通りとプラスキ通りの交差点で、水着女が大雨のシャワーを浴びているとは驚きだ。シャワーというより海水浴の一種なのでしょうなぁ、本人にしてみれば。ザ・グレイトレイク(ミシガン湖)はかなり距離があるし。
「雷がぴかぴか鳴っているんだぜぇ。雨もすごいし」
 シカゴの連中はみんなクレイジーだ。これも神の威光のひとつと言えるのかもしれない。雷が自分だけには落ちないと信じてやまないのだから。
 製鉄所で栄えたシカゴにふさわしく、高い煙突が四本そびえている。街とよく似合っている。
 こうやって適当にクルマを走らせているが、南北、東西の通りの名前をそれぞれ四本くらいずつ覚えていると、だいたいどこへでも行ける。

アメリカの街の多くは街路が東西南北に切られ、
それぞれに順序よく番地が振るられている。
だからアメリカでよく知らない街をクルマで走るときは、
「ここかな」と思ったところでも思い切って通り過ぎるのがいい。
「ここかな」と思ったとき左折か右折をしても、
もしまだだったら、目的地を見つけるのは難しい。
通り過ぎれば「あっ、通り過ぎた」とわかることが多いので、
Uターンすれば確実に目的の場所へ行ける。
行き過ぎてしまうのを怖がって手前で左折や右折ばかりしていると、
永遠に目的地へ行き着かない。
こういう癖を「慎重だ」とは言わない。
繰り返すが、アメリカでは行き過ぎるくらいが結果が良好である。

 ただいま午後一時三十四分。左前方にシアーズセンターが見える。目の前にベンツとアメ車が正面衝突したまま放置されていた。初め、てっきり向かい合って駐車しているものとばかり思っていた。事故を起こすと「そのまんま」事故った状態でクルマを何時間でも道路上に放置する光景をいくつも見た。ニューオリンズの目抜き通りの交差点では左折車同士が正面衝突した光景を目撃した。事故現場では衝突した車の近くで男たちが立って何事か話し合いに及んでいる。何時間もたってから現場を通りかかったら、まだ相変わらずまったく同じ光景だった。そこでは時間が凍って止まっているかのようだった。互いに正しさを徹底的に主張する国民性がそうさせるのかもしれない。
「あっ」
 と思ったら、目の前をでかいアメ車が平然と横断した。時間が凍り付いたみたいだった。ブレーキを踏みこむいとまもない。すれすれで事故を回避したが、全身を恐怖の電流が駆け抜けた。
 目抜き通りの橋を渡ってから左へ回り、ザ・ループの近くへ。目の前は摩天楼でいっぱい。午後一時五十分、パブリックパーキングのビルの一番奥へ車を入れる。薄暗く湿った駐車場の奥深くで少し不安が走る。しかしシカゴで会う男性はすべてとても親切だった。ウエットな人が多い。ここの駐車係の黒人男性もていねいなので不安が消えた。
 午後二時七分、タクシーに乗車する。
「どこでもいいから、でかいデパートへ行ってくれ」
 と頼む。
 ドライバーが迷いながら選んだのはマーシャルフィールド(Marshall Field's)というクラシックなところ。内装も品揃えもメイシスに似ている。一階に女物のリズ・クレイボーン、二階に同じく男物のクレイボーンやペリーエリス、ポロ・ラルフローレンなどお馴染みのブランドがそろっている。ここで自分と父のためにおそろいのものを含めて三着買う。八四歳の父へのプレゼントを白人の店員に選んでもらったら、はではでなのを選んだので苦笑いする。老いも若きも派手好みのアメリカ人だからね。日本人の年寄りは地味好みなのだけれど。
 サマー・クリアランス(夏物一掃)セールの真っ盛りなので、五割から二・五割引きの商品が多い。長男の大輔への土産のポロの白か薄黄色のYシャツはシリコンバレーへと持ち越し。次男の健介が希望するルイヴィトンの財布も同様におあずけ。
 真向かいのオールドネービー(Old Navy)でTシャツを四着を購入し、会社の同僚へのおみやげにする。オールドネービーの店内を歩きながらストロベリーのカキ氷をストローでちゅうちゅう飲んでいたら、レジの女の子に
「それなあに?」
 と聞かれてしまった。一瞬、母親に行儀の悪さをたしなめられたかのように錯覚して、ぴくんとなってしまった。
 シカゴで急に子どもっぽくなり、しかも英語がぺらぺらになったぼく。何か金縛りのワイヤーがほどけた感じがする。シカゴの空気が合っているのかもしれない。
 午後五時二十分、駐車場から出て、シカゴ・オヘア空港へ向かうことにする。さっきの黒人のタクシードライバーに
「オヘア空港に行くときはどう行くの」
 と聞いたら、たった一言、
「テイク・ウイスコンシン」
 と簡潔に教えてくれたっけ。
 このアドバイスが功を奏し、一発でルート90/94ウエストに乗ることに成功した。しばらくしたらO'hare(オヘア)に行くべく左レーンへ。これも一発で成功した。午後五時半のことだ。この黒人ドライバーの教授法はまさしくマジックだった。
 ローズモント(Rosemont)というホテル群が見える地区に来た。ローズモントはシカゴ・オヘア空港を利用する乗客たちの宿場町である。ここで高速を降りる。
 午後六時十五分、宿泊料金の高いローズモントから数分走ったところにあるベスト・ウエスタン(Best Western)を見つけてチェックイン。それでも一泊百二ドルもする。やはり空港宿場町はコストが高くつく。昨晩泊まったモーテルのバジェッテル・インは、ここからわずかな距離なのに、ローズモントから外れているというだけで六十二ドルの格安さだった。
 夜九時過ぎまでかかって荷物の整理にいそしむ。なぜならあす飛行機に乗るためレンタカーを返却しなければならないから。飛行機に乗るには荷物を減らさなくてはならない。それが理由。
 インターネットでメールチェックをすると、ショッキングな電子メールが二通も来ていて、文面を見たらみるみる血の気が引いた。
 新潟からの電子メールは次の通りである。
 「もうすぐお帰りになることかと存じますが、今日、8月4日は新潟が大変なことになっています。実は史上例のない大雨に見舞われ、あちこちで被害がでています。今のところ浸水が1万1000戸で、道路の冠水も多数、笹神村は堤防決壊寸前で佐渡では死者も出るなど、まあ、すごいことになっています。多数の人が車を失っている模様で、ボンネットまで水に浸かっている車もざらです。新潟西地区では越後線ののり面が崩れたり、斜面崩れが多発しており、青山、寺尾、小針の住民は四苦八苦しています。以上報告まででした」
 シリコンバレーの知人から来た知らせは次のようだった。
 「八月四日火曜日にみた共同通信ニュースで、下記の記事が載っておりましたので、ご連絡いたします。1万3000戸が浸水=新潟で集中豪雨、1人死亡。四日未明から朝にかけて新潟県北部は、梅雨前線の影響で局地的に激しい雨となり、新潟市では1時間に97ミリ、午前零時から午後4時までの雨量が265ミリと、いずれも1886(明治19)年の観測開始以来最高の記録的豪雨となった。(中略)堤さんのことだからご自宅にはまめに連絡なさっているとは思いますが、もしまだご存知なかったら、と思いメールしました。老婆心ながら」

 新潟市西郊外の我が家は水害被災地のど真ん中だ。大変なことになったものだ。ぞっとして即座に新潟へ電話を入れた。母が電話に出て、父母、妻、息子たち家族は雷と大雨で眠れぬ一夜を過ごしたということだった。幸い、我が家はセーフ。しかし次男のクルマだけ運悪く友人の家の近くに駐車していて床まで水に浸かり、運転席のドアを開いたら水がどばーっと出たという。結局、修理工場に出すはめになった。会社の同僚の何人かはクルマが使い物にならなくなり廃棄したという。


 ▼ロッキー山脈を越えるとカリフォルニア

 四十八日目(八月五日・水曜日) きょうは十七日ぶりにカリフォルニアへ帰る日だ。予約したフライトは、アメリカン航空の午前十一時四十五分シカゴ発サンノゼ行きAA1041便である。
 午前九時十分にベスト・ウエスタンを出る。空港でレンタカーを返却し終わったのは十三分後のこと。九時四十分、アメリカン航空の列に並ぶ。混乱したワシントンDCの空港と違い、今度は係員が手際よく列の整理をしていてスムースだ。
 午前十時ジャストにチェックインが終わる。K15ゲートに到着した。カウボーイハットをかぶって意気揚々と。いつの間にか途中で出発ゲートがK15からK19に変更されていた。これだからアメリカは怖い。ろくにアナウンスもない。搭乗時間が迫っているのにゲート前がさみしいので「なんか変だなぁ」と思ってアメリカン航空の職員に質問して助かった。
 搭乗券を見つつ自分の座席に座ろうとカウボーイハット姿で通路を歩いていたら、
「キャプテン(機長という意味もある)がハットをかぶっておりまーす」
 とスチュワーデスに機内アナウンスをされてしまった。アメリカン航空は、ライバルのユナイテッド航空に勝るとも劣らない過激な航空会社だ。うーむ。目立ちすぎだった。席に座ったところでスチュワーデスにカウボーイハットを渡し、頭上のバッグ収納棚に放り込んでもらった。
 正午ジャストに離陸した。左隣の左翼窓側の座席では中学生くらいの金髪の女の子が一生懸命に絵を書いている。女友だちのいるニューヨークで買ってきたというクマとタイガーとゴリラの縫いぐるみをお守りとして前席の背のテーブル上に置いている。
 この子から
「これどうぞ」
 と赤い細長いおねじれのお菓子をもらう。
「ごちそうさま」
 とお礼を言ってからさっそく口に入れ、かみかみする。あまりおいしいとはいえないが、飽きもしない。アゴの運動に向いている。
 午後一時五十分、窓の下にロッキー山脈が見え始めた。きれいだ。雪も見える。サンノゼ・ダラス間はエンジニアが多かったのに、このシカゴ・サンノゼ便は家族連れが多い。右の席ではトランプゲームに興じていた。こどもの乗客が多い。
 午後三時四十分にサンノゼ国際空港に着陸した。同五十二分、早くも空港ロビーでたばこに点火する。腕時計の長針を二時間戻す。黒いトヨタ・カムリをゲット。空港からクルマを出すが、極めてスムースだ。
「このドライビングの上達ぶりはなんだ」
 とつぶやく。ルート101が怖くない。鍛えられたんだ、アメリカ横断で。
 夜、ぼくの快挙祝いということでシリコンバレーの知人とサラトガのスシバーやワインバーをはしごした。ワインの酔いで元気が出た。夜十一時すぎ、ボトルを持ってプールサイドへ。さっきまで泳いでいた白人たちはもう引き上げていて人っ子ひとりいない。突然、連れの女性が服を着たまま泳ぎ出した。プールサイドにたたずむぼくも彼女から引きずり込まれるようにして服のまま水の中へ入った。プールは水中照明でコバルトブルーに染まっている。妖精といっしょに宇宙を漂っている幻想に遊んだ。


 ▼日本へ帰国するときが来た

 四十九日目(八月六日・木曜日) あしたは日本、ホテルで荷物の整理に汗だくに。ニューヨークから電子メールが来ていた。ぼくと入れ替わりにヨルダンのアンマンに住む共通の知人のジャーナリストがシカゴに来たという。偶然がもたらす驚き。

 五十日目(八月七日・金曜日) 帰国する日がきた。フライトはアメリカン航空のAA129便。午後零時三十五分サンノゼ発だ。ウトウトとして目覚まし時計のアラームが鳴るたびにアラームセットを三十分ずつ遅らせるが、ついに午前八時四十分に起きる。日本に帰れるというのに、なんだこの怠惰さは。遅くとも午前十時半までに飛行場に到着するようにしなくては。
 午前九時五十五分にホテルを出た。ホテル裏の駐車場からクルマを発進させるとき
「ぼくの長い旅が終わったんだ」
 と思い、甘悲しくなった。この旅の五十日間を振り返れば、奇妙にぼくの五十年間の人生と符丁が合う。飛行機で太平洋上空を飛んでいるときに五十一日目が来る。ぼくの五十一歳はどんなドラマが待ちかまえているのだろう。
 午前十時十分にレンタカーを返してすぐアメリカン航空にチェックイン。ラゲッジを二個チェックインした。個数も重量もオーバーしていないので追加料金はない。
 サンノゼ国際空港のA15ゲートに着いたのが十時四十五分。ホテルの冷蔵庫で冷やしておいたダークビール、それに昨晩のイタリアンレストランからテイクアウトしたピザなどを食べる。あと二時間足らずで機内の人となるはずである。15ゲート真向かいにガラス張りの喫煙コーナーがあり、そしてお酒の売店も近くにあるので、このサンノゼ国際空港はぼく向きだ。ワシントンDCの空港などには喫煙場所もお酒の売店も見つからなかった。
 太陽が左の窓に見える左翼の座席に座り、午後零時三十五分に離陸のところを少し遅れ、午後一時に離陸した。十時間のフライト予定だという。
 アメリカン航空の機内では昼食で月桂冠を最高のお燗で飲ませてくれる。えもいえぬふしぎな味がする。
 スチュワーデスにもう一杯だけ(奇跡のお燗を)お願いしたら
「シュアー」
 と二つ返事だった。
 今度のお燗もとってもおいしい。ビーフもおいしくいただいた。

 五十一日目(八月八日・土曜日) 機内でうとうとしているうちに太平洋をひとっ飛び。日本時間で午後三時十分に成田空港に到着する。予定より二十分も早い到着だった。入管も税関もバッグの荷物を開かずにノーチェックで通過できた。過去、ぼくは、どの国際空港へ行っても、だいたい手荷物をチェックされた。それがどうだろう。ノーチェックだなんて。アメリカでアメリカ人たちに親切にされたら毒気が抜けたのだろうか。それで入管や税関の係官が警戒心をゆるめてくれたのかもしれない。
 久しぶりに日本円を使って成田から新潟までの切符を買う。新潟駅に着くと、夏祭りの名物の大民謡流しが行われていた。
 荷物を手にプラットホームを歩く乗客たちが
「あしたは花火大会でしたよね」
 と話していた。
 駅南口に妻がいた。妻の乗用車で家に着き、玄関のドアを開くと真っ白い動物が舞うようにぼくにまとわりついた。一瞬、天女の舞いと思った。モモだった。美しい動物だと思った。
 夜、目がさめると「ここはどこ?」と怖かった。隣に妻とモモが眠っていた。


著者の略歴


著者の略歴

堤 徹(つつみ・とおる)
 1947年10月16日、新潟市に生まれる。1972年、慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業(南北問題を専攻)。同年4月、新潟日報社に入社。1999年、同社を退職。ピクニック企画編集長。国際ジャーナリスト。趣味はセーリング、スキューバダイビング、映画、音楽、外国旅行。
■次の著書がある。
 佐渡海底散歩(1976年、野島書店)、日本海の生物(1978年、同)、
地球の神さまのラブレター(2003年、ピクニック企画)

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