アメリカ・パラダイスへの横断旅行(1)語学留学編
著・堤徹

はじめに
 アメリカに二つのパラダイス(桃源郷)があった。それはカリフォルニアのサニーベール(愛称はシリコンバレーの心)、そしてニューヨークのマンハッタン(愛称はビッグアップル)だ。ぼくがここで書くことはといえば、西海岸に到着してから東海岸へと至るまでの五十一日間の旅である。偶然に導かれてたどり着いたところは、まさしく桃源郷であった。

 映画「八十日間世界一周」に流れるあの主題歌の甘いメロディーを聞いていると、おもいっきり冒険心をそそられて、ぼくはとてもやるせない気持ちになる。異国の土地をさまよい歩かなければ生きていく価値がない、そう思うところまで気持ちが切迫する。  そんなふうに冒険がしたくてウズウズしていた五〇歳の夏、クルマでひとり全米を走り抜ける旅を計画した。「五〇歳のいま、冒険しなければ二度とチャンスはない」とまで思い詰めたが、思い立ったときは夢のまた夢、まさか実現するとは思いもしなかった。しかし家族を説得するうちにどんどん現実味が出始め、とうとう「行って来たら?」と賛成してもらえた。会社も「情報テクノロジーとデジタルメディアの研究、政治・経済・文化・宗教の視察」という欲ばりな名目の長期休暇になんとか同意してくれた。日祭日の公休に有給休暇や健康休暇などの制度休を組み合わせたら有休が四日ほど余り、欠勤扱いにならなかったので、給与と昇進のいずれも悪い待遇を受けなかった。
 日程は、曜日の関係で、出発が一九九八年六月十九日(金曜日)、帰国は八月八日(土曜日)と決めた。五十一日間の旅であり、帰国後の時差ボケ調整のため八月九日の一日だけを空白日とした。
 総予算は一万ドルである。銀行にわけを話し、全額を日本円で借りて返済期間三年のローンを組んだ。うちクルマ関係に二千五百ドル、ホテルかモーテルの宿泊代に三千五百ドルと考えたが、予算が足りるかどうか未確定要素があまりに多く、コストダウンの必要に迫られた。当たって砕けろ、行ってから考えようと、旅行代理店のJTBに頼んだのは航空券の手配だけ。宿泊はとりあえず一週間だけ押さえておこうと、日本から自分でアメリカのホテルに国際電話を一本入れただけ。たったこれだけの予約で旅に出ることにした。
 小さいクルマは事故ると怖い。現地で借りたレンタカーは一貫してフルサイズの四リッター四ドアセダン。助手席に全米地図の「トラベル・アトラス」と州別地図の「トーマス・マップ」を放りこみ、道に迷えば現地の人に聞いた。クルマなのでスケジュールはフレキシブル、つまらなそうな土地なら通り過ぎ、楽しそうなら長居をした。
 ドライブした航跡を地図上で見てほしい。結局ぼくはアメリカ合衆国の大地にJapanの頭文字のJの字を残してきた。Jの字の長さは三千キロもある。カリフォルニアを起点に、テキサス、ルイジアナ、ミシシッピ、アラバマ、フロリダ、ジョージア、サウスキャロライナ、ノースキャロライナ、バージニア、ワシントンDC、メリーランド、ペンシルベニア、デラウエア、ニュージャージー、ニューヨーク、イリノイの各州で百以上の都市や田舎町を訪ね、またカリフォルニアに戻った。
 途中三回だけ飛行機で山脈越えをしたが、飛行機・レンタカー・飛行機・レンタカーの繰り返しは旅に変化が生まれて楽しかった。
 ただし予備知識のないまま、いきなり過激に行動すると危ないと思って、スケジュールの前半はカリフォルニアの語学学校で「米語」と「アメリカの常識」の特訓を受けながら、ひたすらクルマでカリフォルニア州内を東西南北に走り回る毎日を送った。
 五十一日間、危険なことも何回かあったが、アメリカ人の力添えにより切り抜けてきた。人種と男女を問わず知り合いをたくさんつくり、酒をくみかわしてきた。倹約をしたが、ときにはぜいたくもした。嵐に遭遇したときは、稲妻がパノラマのように大空に描かれる大自然の神秘を見た。延々と走った果てに地平線上に忽然と摩天楼の街が現われると、全身に電流が走るような感激を覚えた。広大な草原や砂漠の中に点在する都市。そこに住むアメリカ人たちの自由奔放さ。アメリカという国は、ほんとうに冒険心をそそる。  そんな自由気ままな旅の追体験をあなたにもしていただけたらなぁと、感激のさめやらぬいまペンをとる。

堤 徹


目 次

準備編
完全自由には、つらいものがあった
限定予算にも、つらいものがあった
恐怖のどん底状態に
アメリカの常識・学習編
アパートメントホテルの生活が開幕
フルサイズのレンタカーをゲット
サンフランシスコへ日帰りドライブに
アットホームな語学学校を発掘
アメリカの常識学の教師が決まる
空には見知らぬ星座、踊る人々は盛装の異邦人
足を組み、人を呼び捨てにし、笑いたければ笑う
巨大な駐車場でクルマを見失う
時速百九十キロの恐怖のドライブ
湖畔でピクニック、日本人を発見
「彼女を満たしてほしい」と頼むとガソリンが
同じ行き先の車を追跡したら目的地に着いた
全米旅行に備え大型の全米地図を買う
レストルームで事件発生
難航する大陸横断プラン

アメリカ横断・決行編
熱波のテキサス州ダラスでアメ車をゲット
テキサス州ガルベストンの入り口は空中回廊だった
ルイジアナ・ママはジョークが好き
ミシシッピ州、ブルーの沼を過ぎるとアラバマ州
ジョージア州はコーラがウマイ
南キャロライナ州から北キャロライナ州へ
南北戦争の爪痕が残るバージニア州へ
ホワイトハウスを目前に金髪娘たちと酒を飲み干す
ワシントンDCを素通り、東部各州を走破
眼下にはマンハッタンの摩天楼
ニューヨークっ子と連続デート
ハドソン川の橋を渡るとニュージャージー州
ケネディの足跡を逆にたどる冒険旅行に幕
シカゴの摩天楼に圧倒される
ウィスコンシン州に行きそびれる
シカゴ市民は雷と友だち
ロッキー山脈を越えるとカリフォルニア
日本へ帰国するときが来た


■準備編■


 使い果たすことのできる金額は一万ドル、自由になる時間は五十一日間。行く国はアメリカ。交通手段は飛行機とクルマ。あとはどこで何をしようと自分の勝手。この段階で、拡大ルーペ片手にアメリカ合衆国の地図を食い入るように見つめながら、バーチャルな旅をした。

 ▼完全自由には、つらいものがあった

 行きたいところ? うーむ。カリフォルニア州かなぁ。待てよ。もう二度も行ってるしなぁ。
 オレゴン州もいいね、あの山岳地帯の田舎でのんびりすると楽しそう。湖畔でキャンプをすると涼しいだろうなぁ。
 ニューヨークシティはごみごみしているけど、なんといっても世界の頂点だからな。華やかさが違うはず。
 挑戦精神活発なテキサス州にも行きたい。元気のいいカーボーイハットの男女と仲良くなりたい。
 ユタ州のソルトレークシティは居心地がよさそうだ。広大な塩の湖を一度見てみたかった。
 それにネバダ州のラスベガスに行ってルーレットで大儲けしたいし。あそこはいまでは遊園地化しているらしいのだが。
 それともフロリダ州のマイアミで海水浴をしながらビキニの金髪女性と仲良くなろうか。
 いつ、どこで、なにをするのも自由ってのは、ものすごくしんどい。自由すぎると
「えーいめんどーくさーい、誰か代わりに決めてくれーっ」
 ってふうになる。来る日も来る日も迷ってばかりで、いつまでたってもルートが決まらなくなってしまった。このままでは飛行機の予約もホテルの予約もできなくなってしまう。
 そこで白紙の状態のままJTB新潟・海外旅行サロンの担当者、恭子さんに家から電話をした。ここまで迷うと、弁慶が白紙の巻物を勧進帳と称して読み上げたみたいに、口から出まかせで予約するしかない。
「恭子さん、えーと、うーんと、そうだ! アメリカン航空で成田からサンノゼまで往復切符とっていただける? 出発は六月十九日、帰国は八月八日に成田に着くようにしたいんだけど」
 サンノゼはカリフォルニア州にある都会で、ここには小さいながらも国際空港がある。最初、そんな国際空港があるなんて知らなかったのだが、恭子さんが
「去年アメリカに行って来たとき、サンノゼからアメリカン航空の直行便で成田に帰ってきたのよ」
 という話を出したので
「これだ!」
 と思い、決めたのだ。
 太平洋往復の切符代はエコノミーで九万二千円だという。そして同じアメリカン航空で飛べば、アメリカ国内のフライトなら三回くらいまで無料らしいと聞いた。タダほど安いものはない。使わないと損をする。そこで机の上に広げたアメリカの大地図帳とシステムノートのカレンダーを見ながら、また口から出まかせを言う。
「じゃぁ、七月二十日の月曜日にサンノゼからテキサスのダラスまで飛ぶ。八月二日の日曜日にワシントンDCからシカゴまでのフライトも。あと、八月五日の水曜日にシカゴからサンノゼまで飛びたい」
 これで決まった。
「飛行機に乗らないときは何に乗るんですかぁ?」
 と恭子さんは聞くのだが、クルマの運転にバテたときのことも考えて
「たぶんレンタカーだと思うんだけど、アトランタあたりには汽車で行くかもしれない」
 と答えた。
 すると恭子さんが
「ホテルどうします? サンノゼはけっこう高いですよ」
 と聞くので
「高いところは泊まれません」
 と引導を渡しておいた。

 ▼限定予算にも、つらいものがあった

 ふつーの観光旅行だったら、ぼくならホリデイインかシェラトンのどれかに宿泊する。たまにヒルトンも豪勢でいいな、なんてことを考える。ところが五十一日間ともなると、そんなところに寝泊まりしていたのでは、クレジットカードの請求書はあっというまに二百万円にも上ってしまい、破産してしまう。ホテルのレストランで豪華にお食事をして暮らせば、寝た食っただけで三百万円だ。これはぼくの四年分のおこづかいに匹敵する。「八十日間世界一周」における英国のジェントルマンは、召使いのパスパルトゥに分厚い札束の入った赤いカバンを持たせるが、ぼくの緑色のバッグは中身がカツカツだ。
 そこで考えた。得意のインターネットの検索テクニックを駆使して安上がりのホテルを探すことにしたのだ。アメリカのサーチエンジン「ライコス」というところにアクセスして検索をかけた。キーワードはたった二つ。英語で宿泊という意味の「lodging」と、当面の訪問先のカリフォルニア(california)である。キーワードを記入するための横長の四角の枠内に「lodging」、そして半角で一字あけ、「california」と書き入れてからエンターキーを押すだけでいい。
 出るわ出るわ。高いのから安いのまで、いくらでもある。で、その中で一番安いのを探した。すると、こんなのがあった。

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The Pacific Inn of Sunnyvale
170 South Sunnyvale Ave.
Sunnyvale, California 94086
(408) 732-1760
Value for the Intelligent Traveler

パシフィックイン・サニーベール
〒九四〇八六  カリフォルニア州サニーベール市南サニーベール通り一七〇番地
電話(408) 732-1760
インテリジェントな旅人にぴったり
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 サニーベール(日の当たる谷間)というのは、アメリカのカリフォルニア州サンタクララ郡にある小さな市である。サンフランシスコからクルマで南に五十分ほどの距離にある。ところがこの市は、コンピューター産業の集積地シリコンバレーの中枢部にあり、シリコンバレーの心という愛称で呼ばれていることがわかった。
 ぼくは
「これは蠱惑的ではないか。冷たくて堅いシリコンチップの産地に温かい心があるなんて」
 と感銘を受けた。いったいどんな人々が住んでいるのだろうか。そこに未知の魅力を感じた。
 ここに決めた。料金は良い部屋で一泊八十五ドルほど。有名ホテルの一泊二百ドルとか三百ドルというの比べると、ものすごく安い。しかも、週末のほうが安いという。ふつうホテル代は週末のほうが高いのに。変わっている。さすが国際ビジネスのシリコンバレーだけのことはある。それに一週間ぶっ続けで泊まる場合の週料金だとさらに安く、四百十七ドル(一日およそ五十九ドル)だった。当時はまだ日本円が高かったので、一週間五万円足らずの感覚だった。それでも月に二十万円!
 ひょっとして月に二十万円以内で借りられるマンションか一軒家はないものか。豪華な暮らしができるはず。アメリカでは、男と女が割り勘でルームメイトになって同居しても、だれも怪しまない。華と色のある生活も不可能ではない。インターネットで探すとヨリドリミドリ状態だった。二ベッドルーム付きの豪華マンションが月二千ドル(酔いつぶれたパーティー客を泊められる)。ベッドルームが一つなら千ドルから千五百ドル。そして大きな一軒家でも月二千ドルで借りられる。
 いずれもプールが一つか二つ以上あって当たり前、なければ見向きもされないというふうだった。だいたいマンションの多くは建物がプールを囲むようにして設計されている。そして都会でなく田舎なら、さらに家賃が安い。
 ああしよう、こうしようと、また迷い始めた。一軒家なら、たとえ家具付きでも、電気に水道、ガス、電話、それにテレビの放送サービスを自分で申し込まにゃならん。マンションも多かれ少なかれ似たような手間がかかる。その点、フルサービスのホテルなら、到着したその日から文化生活が営める。
 考えはついに振り出しに戻って、とりあえずパシフィックイン・サニーベールに決めた。時差をみはからって国際電話をかけ、一週間だけ予約を入れた。なぜ一週間だけかというと、まだ豪華マンションや一軒家の暮らしに未練があったのだ。現地へ行ってから考えればいい。そう決めた。

 そしてクルマだ。どうやって調達するか。常識的には行く先々でレンタカーを借りるのが手っ取り早い。アメリカのレンタカー会社は星の数ほどあるが、最大手としてはハーツとエイビスの二社があり、大きな空港や有名ホテルなら、まずどこでもハーツかエイビスの受付カウンターがある。そして大手にバジェット、ダラー、ナショナル、アラモなどがある。ほかに、地方都市で地元の中小の業者から格安のレンタカーを借りるというのも経済的だ。
 あれこれ書籍や資料を取り寄せて研究すると、対人・対物の任意保険を含めて一日五十ドル以上の予算が必要だとわかった。これに五十一日間を掛けると、少なくとも二千五百ドル以上という数字が浮かび上がってくる。
 二千五百ドルという経費をレンタル料につぎ込むことを考えたら、とたんにむくむく欲望とケチケチ精神が舞い上がった。中古車の市場相場はどうだろうか。保存してあったアメリカの新聞の中古車広告欄を広げてみた。なんと、二千五百ドルあれば、欲を言わなければ古いアメ車がよりどりみどり。アメリカで中古車を買い、帰国時に売却すればレンタカーよりずっと安くドライブができる。
 しかし整備は? 車検の手続きは? ここでもまた迷える子羊になってくる。しかたない、クルマの調達も現地へ行ってから決めよう。

 ▼恐怖のどん底状態に

 会社の若手記者、サチコさんから
「堤さん、いいわね、もうすぐアメリカね。カリフォルニアの青い空かぁ。わくわくしますわ」
 と身もだえされ、激しくうらやまられながら、逆にぼくの心は重く沈んでいき、出発直前には恐怖のどん底が待っていた。
 レンタカーの料金や生活費のことを考え出すと、一万ドルあっても足りなくなるような気がする。お金はどうやって持って行ったらいいのだろう。多額の現金を持ち歩くと危ない。もし銃で脅されたらどうしよう。財布を路上に投げればいいのだろうか。クルマから降りたとたんに強盗からズドンと撃たれないのだろうか。はたして言葉は通じるか。大陸横断の途中、湿地帯や草原のまん中で車がエンコしたら、だれかが助けてくれるのだろうか。
 加えて、出発寸前にあれよあれよと円安ドル高が進み、一ドル百四十円台にもなって予算不足はさらに深刻になった。あのとき円をドルに替えていれば二十万円以上も得してたのに! ともだえても遅い。円安ドル高を告げるニュースが連日流れるたびに同僚から
「堤さん、泣きが入りますねぇ」
 と同情されたりした。
 そして持参すべきものが欠落していたのではアメリカで立ち往生する。出発の三日前、携帯品のリストを作成してみた。



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●貴重品
 パスポート、日本の国内運転免許証、国際運転免許証
 航空券、JR切符、旅行保険の証書、名刺、顔写真二枚、
 会員カード(ユナイテッド航空/アメリカン航空/ホリデイイン/ハーツ)
 システムノート(知人リスト/ホテルの住所)
●マネー
 DCクレジットカード(マスター)、シティバンクカード(VISA)、NICOSカード(VISA)、JCBカード、シティバンクのキャッシュカード、旅行者小切手(TC)二千五百ドル、米ドルの現金百ドル、日本円の現金七万円
●コンピューター関係
 ノートパソコン一式、ポケコン一式、ソフトウェアのCDとFD
 アメリカ用の電源トランス、充電器具、電話アダプター、延長ケーブル
●カメラ
 一眼レフ、フィルム、ビデオカメラ、テープ
●文房具など
 ボイスレコーダー、ペン、観光ガイド書、英和・和英辞書
●雑品
 腕時計、ハンカチ(アメリカでは入手しにくい)、洗面セット、タオル、歯磨き道具、胃腸薬、絆創膏、軟膏、目薬、化粧品、衣類(下着、ズボン、シャツ、セーター、ショートパンツ、水着、靴下三足)、ヘアブラシ、洗濯ばさみ、爪切り、ナイフ、ワインオープナー、雨具、充電式ひげ剃り、スリッパ、目覚まし、ビニール袋、ウエストバッグ
--------------------携帯品リスト-------------------------------------------


 パスポート、免許証、クレジットカードなど、もし忘れると旅の途中でただちに困ることになる品々が多すぎる。出発前日までピリピリした。しかし持参するのを忘れても、お金で買えるものもある。足りないものは現地で購入することにした。




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■アメリカの常識・学習編■
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 ▼アパートメントホテルの生活が開幕

 初日(六月十九日・金曜日) 出発の日がとうとうやって来た。新潟市西郊外の自宅を出るとき、メス一歳のパピヨン犬、モモが、ぼくのいなくなるのをわかったらしく、離れない。モモが悲しんでいる。こんなことは初めてだ。玄関を出ようとすると、ドアの狭い隙間をすり抜けて外に飛び出し、必死に追いすがり、庭でひっくり返って甘えた。振り切って午前十時ジャストに家を出た。
 新潟駅までの十五分間のドライブで妻の寿美に
「なんだか怖いなぁ」
 と言うと
「日程を消化しないで途中で帰って来ると、みんなに知られるわよ」
 と、むごいことを言われた。
 寿美と新幹線の改札口で五十一日間の別れを惜しむ。
 成田の国際空港は、いつきても出発の興奮でわくわくする。JTBがせっかく窓際をとってくれていたが、オン・アイル(通路側)に変更をお願いする。オン・アイルの席はスチュワーデスに頼み事がしやすいのだ。
 アメリカン航空のサンノゼ行きは三発エンジンのMD11機だった。真新しくて素晴らしい飛行機だ。
 機内の座席は二プラス五プラス二となっていて、ぼくの座席は左翼側だった。
 機内では少し乱気流(タービュランス)があった。
 飛行時間八時間四十分、あっけなくサンノゼに到着した。機の車輪が地面に着くと、ドスンと少しショックがあった。滑走路が短かめの空港だからかな。あるいはベテランのパイロットだとこれが当たり前なのかもしれない。
 日付変更線を通過した関係で、新潟市の自宅を出たのとまったく同じ日の同じ時刻の午前十時にサンノゼへ到着した。
 カリフォルニアは晴れていて、暑かった。
 サンノゼ国際空港の入国審査の窓口はドメスティックが一つ、外国人向けが一つしかない。時間はいくらでもあるのだからと、のんびり列の後尾に並んだら、だいぶ待たされるはめになった。
 持参品はというと、衣類の入ったでっかいカバンが一個、パソコンを格納するアルミカバンが一個、デジタルムービーカメラと一眼レフカメラが入った黒い肩掛けカバンが一個、それに免許証やパスポートを入れた小型バッグが一個である。ひーほー言いながら持ってきたら肩と両手がすりむけた。
 とりあえずけちけちと一万円をドルにした。円安の直撃でたった六十四ドルにしかならない。まるでぼくの冒険旅行をねらい打ちしているようだ。
 空港のターミナルで乗り込んだタクシーのドライバーは黒人だった。土地勘が天才的で、小さなホテルを一発で見つけた。
 カリフォルニアの空は抜けるように青い。街路は広く、南洋を思わせる樹木が建ち並び、紫色の花々が咲き乱れている。沿道のショッピングセンターはどれも巨大で、購買意欲がどんどん膨れ上がってゆく。

到着したホテルは、いわゆる「アパートメントホテル」と呼ばれるもので、
掃除やリネン類の交換はフルサービスでありながら
週料金は四百十七ドルと、
三ツ星のホテルと比べて極端に経済的になっている。
それだけに外観も部屋も豪勢だとはいえない。
アパートメントホテルは数週間の短期滞在に向いていて、
一軒家かアパートがみつかるまで寄宿する各国の現地駐在員も多い。

 ぼくが陣取った部屋には、三人が並んで眠れるキングサイズのベッド、大型テレビとビデオデッキ、オーディオテープとCDを搭載したオーディオシステム(といっても、でぶいラジカセにすぎないのだが)、ゆったりしたバス、それにアメリカでポピュラーな強力な電熱式コンロを二基備えたキッチネット(簡易台所)と冷蔵庫が付属している。
 ぼくの部屋はエギュゼキュティブ・ルームと呼ばれていた。一般の部屋がたくさん並ぶ廊下を通り、さらに茶色のカード型キーで防犯ドアを開けると、やっと自分の部屋があるエギュゼキュティブゾーンの通路にたどり着く。一般の部屋に比べて二割ほど宿泊費が高いが、深夜は全部で四つのカード型キーを使わないと部屋に入れない。これはすごい。安心感がまったく違う。訪米の初日から熟睡することができた。
 とはいえアパートメントホテルに百%満足していたわけではない。マンション住まいのバラ色の夢をどうしても捨てきれず、来る日も来る日も街角の美麗なマンションや集合住宅を横目で見ながら迷い続けた。不動産業者に電話でコストや間取りを聞いたこともあったが、手続きのわずらわしさからどうしても踏み切れず、ずるずるとこの質素だが便利なアパートメントホテルに住み続けることになる。
 ともあれ、ここシリコンバレーで、ぼくの冒険旅行がスタートした。

シリコンバレーは、アメリカ西海岸のサンフランシスコから
ルート101か280を車で五十分ほど南下したところにある
カリフォルニア州サンタクララ郡の渓谷地帯である。
果実が豊富で、だれにとっても魅力的なのどかな土地であり、
もともとインディアンが野生の鳥獣を狩猟して暮らしていたが、
十八世紀にスペイン人探検家が進出し、
カリフォルニア最古の都市サンノゼをつくった。
ゴールドラッシュのときには金と水銀を求めて
たくさんの山師たちが訪れ、にぎわった。
第二次世界大戦のころになると、
W・ヒューレットとD・パッカードが
パロアルトの下宿の車庫で電子機器を開発し、
一九四七年にヒューレット・パッカード社を設立した。
これを皮切りにマイクロエレクトロニクス企業が相次いで進出した。
こうした企業群は、主にシリコンを原料とする半導体を扱っているため、
いつしかシリコンバレーの名がついた。
シリコンバレーは現在、コンピューター企業のメッカとなっていて、
わずか半径三十マイルの渓谷に
世界のコンピューター界を代表する企業のほとんどが集中し、
ビルとビルの間をハイウエーが縦横に走る。

 移動型の外国体験と、定住型の外国体験は、まったくと言っていいほど内容が違ってくる。移動型が変化に富むスリル十倍の体験の連続だとすると、定住型は幸福感十倍の体験となる。定住型体験では外国人の顔見知りが増え、異性との交際や恋心の芽生えもあり、その国の言葉がどんどん巧くなる。二週間でもいいから定住型の旅をすると、その経験を生かして通過型の旅を充実させることもできるようになっていく。旅行者としての幅も出てくるように思うのだ。

 ここサニーベールは、インターネットの総帥といわれるゴア副大統領が
「アメリカ合衆国で一番機能的な都市である」
 とほめた街だそうだ。
 シリコンバレーの中枢部にあり、シリコンバレーのハート(心、あるいは心臓部)との異名を持つ。サニーベールの中央に巨大なタウンセンターがあり、この周辺の住宅街は端正で静か。カルトレイン(サンフランシスコからシリコンバレーまでカリフォルニア州を縦断している鉄道)の駅前からタウンセンターへと続く繁華街はこじんまりとして清潔だ。
 しかしぼくは、まったくのよそもの。気持ちははやるばかりで、なにか落ち着かない。そんなときはショッピングと音楽が特効薬に違いない。さっそくお向かいのタウンセンターに行き、二階にあるテナントのミュージックショップでシャーリーンの「I've never been to me(愛はかげろうのように)」のCDを発見した。

歌声は、カリフォルニアの甘いワインと同じく心を愛で満たす。
カーラジオのFM放送で、この世のものとは思えない歌声に出会ったときは
ほんとうにうれしい。
千円から三千円の金額で買えるこのようなすばらしいものを他に知らない。
ぼくは五十年間生きてきて、
レコード店へ飛ぶようにしてCDを買いに行ったことが二回だけある。
それは竹内まりやの「Quiet Life」と、
そしてシャーリーンの「愛はかげろうのように」だった。
「Quiet Life」は竹内まりやが作詞作曲した。
彼女はこの歌で、足りないものを探すのに飽きたら
新しい夜明けが訪れるから、
他のだれとも違う君らしい生き方を見つけてほしい、
愛を知るその日は近いのだから、と歌う。
「I've never been to me」は、若いころ苦労ばかりしていた
ハリウッド生まれのシャーリーンのためにロン・ミラーが作詞し、
ケン・ハーシュが作曲した。
この歌でシャーリーンは手の届かないパラダイスの夢ばかり見ている人たちに
呼び掛ける。
ジョージアもカリフォルニアも、ニースもギリシャの島々も、
モンテカルロにも行ったけれど、そんな幸福を味わってはみても、
結局わたしたちが出会う現実というものは、
眠っている赤ちゃんの顔を見たり、恋人とけんかや仲直りを繰り返していく、
それが生きていくってこと、と歌う。
偶然この歌をFM放送で聴いたとき、
ちょうど新しい夢を探そうとしてジョージアのアトランタと
カリフォルニアのシリコンバレーを訪れる準備中だったので胸が騒いだ。

 ポリドールのアルバム「愛はかげろうのように」の曲目解説に水野さちこ氏が記しているところによると、この歌は一九七六年の制作当初はまったく騒がれなかったが、一九八二年の初めフロリダのラジオ放送局のDJが古いアルバムの中からこの一曲を選んで電波に乗せるやいなや放送局やレコード店の電話が鳴りっぱなしになった。彼女がその歌をヒットさせることができたのは人生の苦労のたまものだったのだが、ぼくにとってもジョージアとカリフォルニアを訪れる旅は、長い時間をかけて温めていた夢だったのだ。

 お昼はショッピングセンターの二階にある歩行者天国の真ん中で、全財産の入ったバッグを抱きしめるようにして、周囲をおどおどと見渡しつつピザをいただく。ミディアムのサイダー(日本人の感覚だとラージ並みの大きさ)込みで五・九九ドル。向かいにシシカバブの店もあったので
「しまった。あっちにすればよかった」
 とほぞをかむ。
 しかし
「これは駆け足観光などではなく、五十一日間の初日なのだ」
 ということを思いだし苦笑いしてしまった。
 外へ出ると暑い。でも木陰は寒くて震えるというおかしな天気。
 午後五時四十分に昼寝から起きてAT&T経由のフリーダイヤルでクレジットカード引き落としの国際電話をした。ホテルからダイレクトで国際電話をすると、びっくりするような電話料を請求されるので、ここはやはりフリーダイヤルを利用しないとうそだ。アメリカ国内の電話でも、呼び出し音が「プルルル、プルルル」と六回以上鳴ると、相手が出ようが出まいが通話料金を課金するホテルが多いので、注意しなくては。呼び出し音が五回までなら課金されない。
 夏時間のこっちから見ると、あっちの日本の時刻は四を足して昼夜をひっくり返せばいい。つまりこっちが午後五時四十分なら、あっちは午前九時四十分だ。足さないで引いてしまって深夜に日本人をたたき起こす旅行者も多いらしい。
 すぐ妻が出たので
「着いたよ」とあいさつする。
 彼女に
「いよいよ始動だわね」
 と扇動的なことを言われてしまった。
 で、妻の言葉に忠実に、アメリカ生活を始動するため街へレッツゴー。だだっ広い街並みなので、クルマがないと歩く奴隷みたいになる。歩いているうちに偶然、カルトレインのサニーベール駅を発見した。駅前で客待ちをしていたタクシーに乗ってスーパーのラッキーへ。タクシーから降りるとき
「帰りも呼びたいのだけど」
 と言うと、ドライバーは
「ここに電話するといい」
 と黄色い名刺をくれた。
 このカードの番号に電話してタクシーを呼べばいいのだ。
 スーパーで張り切って買い物に挑戦した。ワインの棚を見つけるのにそう時間はかからない。Domaine St. Georgeというカリフォルニアワインの赤があった。ほんのり甘みがあり、五・九九ドルなのにすごくおいしかった。ビールはローエンブラウのダーク。これもすばらしかった。ダークビールは味が濃くて飲みがいがある。
 プロレスラーが履く草履みたいなでかくて厚い骨付きのリブステーキが三枚で七・五〇ドル。その他もろもろで合計九十ドルちょっとの買い物に。しかしなにもかも足りないものだらけで、まだまだショッピングは続きそう。足りないものを探すのに飽きたら何をしよう。この異国情緒いっぱいのカリフォルニアで。
 ホテルのキッチネットで調理したリブステーキは最高だった。ソイソース(ショウユ)味のタレとレモンペパー、そしてソルトで味付けをした。サニーレタスをフレンチドレッシングとソルトで味付け。最高のディナーとなった。
 一刻も早くインターネットに接続したくてサンタクララ市のベイエリアネットワーク社へ電話する。根ほり葉ほり聞かれて入会する。会費は毎月二十ドルだ。二時間ほどで接続可能になるという。これでインターネット上の日本の新聞を日本語で読めるようになる。日本語は読みやすい。英語は疲れる。
 知り合いがいない、習慣がちがう、言葉もちがう。遠い異国にひとり飛びこんでみたら、思いがけないことに、初日から毎日が夢うつつのような幸福感に包まれた。自分が日本人で、いま外国のアメリカ合衆国にいて、五〇歳の良識を持ち、といった自意識はどこかに置き忘れてしまったようだった。
「自分は二〇歳のアメリカ人なんだ」
 と思えばそれでも通用するし、その前提で行動してもなんの異和感もない。
 どんな服装をしようと、だれに恋をしようと、いっさい構わない。
 それが
「アメリカに抱かれる」
 ということなのだと感じるまでにそう長い時間はかからなかった。
 眠い目をこすりこすり持参したノートパソコンを開く。バッテリーだと二時間弱しか持たないので、成田の空港内の売店で六千円で買ったトランスをかませ、充電しながら使う。電話回線のジャックは日本と同じなので、ホテルの電話機につながっているケーブルを外すだけでかんたんにノートパソコンに差しこめた。これで世界中の人たちに電子メールで連絡をとれる。日本に国際電話をかける形で電子メールの着信をチェックし、そして会社の人たちに無事到着したむね何通かメールを出す。
 東海岸にいる知り合いの写真家のスザーンにもメールを出して
「合衆国に来たのであとで会いに行く」
 と用件だけを伝える。


 ▼フルサイズのレンタカーをゲット

 二日目(六月二十日・土曜日) 目が覚めると、そこは日本でなくアメリカなのでギョッとする。軽いショックから醒め、まどろみの中、レンタカーを借りる決心をした。一週間くらいはクルマなしで暮らしてみようとも思っていたが、この広大な国でクルマがなく、バスの乗り方も知らない人はテクテク地獄に落とされるということを昨日一日で思い知らされ、こりごりしていた。
 レンタカー業界最大手のハーツ社にフリーダイヤルで相談すると
「サンノゼ国際空港で借りるのがベストでしょう」
 と教えられた。
 そのハーツのオフィスにはバーバラという上品な女性がいて、
「ご希望のサンダーバードはありません。一日五ドルを足せばトヨタのカムリのフルサイズが借りられますが……」
 という。
 予算的に迷っていると、
「カローラもありますけど」
 と言われたが、このアメリカではコンパクトカーだと力が出ない。それに衝突したとき危ない。

「アメリカ人の日本人観」という本の中で保険会社事務員の白人女性
が日本車を買わない理由についてこう答えている。
「だいたい小さな車は好きじゃないんです。
私どもの家族は保険会社をやっていますので、よく分かるんですけれども、
小さな車による事故はとても危険なんです。死ぬ確率がうんと高いんです」
なるほどアメ車はでかい。
コンパクトな日本車がアメ車と正面衝突すれば、負けてしまう。
大きい車が安全であることを知っている人々は、
狭い日本で、少しでもボディが大きい乗用車を競って買い求めた。
分厚い鉄板、重いディーゼルエンジンのRV四駆車も大人気となった。
まるで二十世紀初頭の帝国主義海軍の大艦巨砲主義だ。

「このままでは通勤にダンプカーを用いないと生き残れなくなってしまう」
 なんてことを考えながら、カムリのフルサイズに決めた。このクルマは四リッター四ドアセダンで、日本の二リッターセダンと比べるとかなりでかい。
 アメリカで人をはねたりすると賠償金が天文学的になるので、あらゆる保険に入ることにした。大事をとり、LDW(Loss Damage Waiver、車両損害補償制度)と、PAI&PEC(Personal Accident Insurance and Personal Effects Coverage、搭乗者保険および携行品保険)、それにLIS(Liability Insurance Suppliment、追加自動車損害賠償保険)の三つに追加加入することにした。
 もし七月二十日までカムリを一ヵ月間借りると、レンタル料プラス保険料で千四百ドルだという。先の計画が立たないからといって一週間ずつ延長しながら借り続けるレンタル料と、一ヵ月間通して借りるレンタル料を比べると、一ヵ月間予約したほうがはるかに安い。しかもハーツの会員なら一五%割り引くという。
 この時点で中古車を買いたいという気持ちはきれいさっぱり消え失せた。ハーツなどの大手レンタカー会社が提供するクルマの整備度の高さは定評があって、ほとんど故障しない。万一故障しても、電話一本でエンストした場所に代車を届けてくれる。この点、中古車だと不安材料が多い。
 レンタカーのマイレージはアメリカン航空に回してくれるよう頼んだ。アメリカン航空は日本航空とマイレージ(飛行距離に比例して受けられる割引サービス)をタイアップしているので、今回のぼくの旅のようにアメリカン航空で日本からアメリカを一巡して帰っただけで、東京・大阪の往復フライトがただになる程度のマイレージのポイントがたまる。ただしアメリカン航空のアドバンテージ会員になっておかないと、この特典が受けられない。
 十五分後には車中の人に。シートベルトをする。ハンドルにはエアバッグが搭載されていた。シートベルトは衝突時に体が前に傾くのを防ぐ。しかし頭が前に傾いてハンドルなどに激突するのを防ぐ機能はない。一方、エアバッグは、車の前に衝撃が加わると瞬時に膨らんで頭と顔を守る。と同時にわずか〇・二秒でしぼみ、衝突後に車が走り続けても、前が見える。シートベルトとエアバッグはそれぞれ単独ではさほどの威力はないが、両方あればかなり安心だ。
 パープル色のカムリに乗り込み、ハンドルを握り、びゅーんとアクセルを吹かすと、時差ぼけと左右ぼけもどこへやら快感がはしり、ただちに101(ワンノーワン)というフリーウエー(通行無料の信号機のない高速道路)を疾走した。この道はサンフランシスコとロサンゼルスを行き来するときに利用するドライバーが多い。
 高速道路に合流するときは神風特攻隊のような度胸が必要だ。おもいっきりスピードを上げて本線に突っこむ。そうしないでのろのろと合流しようとすると、かえって危険なのだ。

アメリカ合衆国では、信号も平面交差もない高速道路のほかに、
交差点のある(準)高速道路がある。
大都会で交差点のある(準)高速道路をうっかり猛スピードで走っていると、
突然目の前に赤信号があってギョッとする。
こういう(準)高速道路の本線に合流するとき、
一時停止しないと危険なことも多いので、心してかからないといけない。

 サニーベールのジャンクションで降りるとき道に迷ったが、でもそのおかげで世界一大きいパソコンショップFry'sを偶然見つけた。このFry'sサニーベール店は世界のパソコン業界の象徴的存在であり、業界でなにか大きなできごとがあると、このお店の正面玄関でマイクを持った人がテレビカメラの前に立つほどだ。
 まさしく売場は巨大であった。エレクトロニクスだけでなく、お菓子やジュースもたくさんあった。ウインドウズ98の千二百ページの分厚い解説書が四十三ドルで平積みになっていた。店員に聞くと、六月二十四日の深夜に臨時開店してウインドウズ98を先行販売するという。
 Fry'sではハリウッド映画のソフトがDVD(デジタルビデオディスク)一色なのにカルチャーショックを受ける。音楽CDと同じ薄い円盤なので、何百本集めてもかさばらない。しかも値段は二十ドルから三十五ドルといった安さ。デジタルムービーは映像もサウンドも迫力が違う。テープのVHSは今後どうなるんだろう。
 Fry'sを出てすぐ、右の方角に銀行のバンク・オブ・アメリカを発見した。この銀行にセービングズ・アカウント(預金口座)を開きたい。口座があるとかっこいいし、いつでもどこでもドルが引き出せるのはうれしい。
 しかし旅慣れた人のだれもが
「パスポートしか持っていない旅行者がアメリカ合衆国の銀行に預金口座を開くことは不可能だ」
 と口をそろえていた。
 さて、この「バンク・オブ・アメリカNT&SA」にふらふらと入り、だめで元々と、普通預金口座の開設を窓口の女性に頼んでみた。しばらくソファで待たされたが、やがてチャーミングな四〇歳くらいの白人女性のマリアンヌがカウンターの中から出て来て、
「可能ですよ」
 という。夢ではないか。
「最初の預金に三百ドルが必要なのですが」
 というので、JCBカードで下ろそうとしたら、だめだった。マリアンヌに連れられて窓口の女性のところに戻り、彼女から手でJCBのナンバーを入力してもらうが、これもだめ。そこで予備に持っていたマスターカードを試したら窓口の女性は
「これ、これなのよね」
 と独り言をつぶやきながら白くて細い指をキーボードに走らせた。
 アメリカのクレジットカード業界において、マスターはVISAと並ぶ二大クレジット会社のひとつであり、合衆国における信用は抜群、これですぐ三百ドルの入金がOKとなった。
「キャッシュカードは五日以内に作成してお客様のお宅へ郵送いたします」
 ということなので、ぼくは自分の住所欄に宿泊先のホテルのアドレスを書き入れておいた。
 最後の口座開設手続きとしてキャッシュカードのためのパスワード(暗証番号)を四桁入れ終わったとき、マリアンヌのほうから手を差し出し、
「コングラチュレーション」
 と祝福しつつ細くて柔らかい手で握手してくれた。
 アメリカでは女性には自分から握手を求めないと決めていたので、うれしくてハッピー気分になる。
 これでスーパーでもどこでもATM(現金自動支払機)からドルをいつでも引き出せるようになる。バンク・オブ・アメリカのキャッシュカードとクレジットカードを財布に入れておけば現金をあまり持ち歩く必要がないため、強盗の心配をすることがなく、ほんとに安心していられる。
 後日、JCBのサンフランシスコ事務所に
「銀行でクレジットカードが使えない」
 と電話をしてみた。
 すると、
「スライド式のATMだとトラブルが多いので、名刺をカード表面に添えてスライドするか、三和銀行のサンノゼ支店へ行って窓口でキャッシュを手に入れるかしてください」
 とのこと。
 こうなるとJCBカードは最悪のときのための「保険」ではある。持ってたほうが持ってないよりはるかにいい。いざというときはJCBカードを持って三和銀行サンノゼ支店へ走ろう。後日サンノゼへ行く用事があったときに場所だけ確認しておいた。
 帰路、目抜き通りのエルカミーノ・リアルのあたりで、また道に迷った。サニーベールというところは、なかなか土地勘をつかまさせてくれない。間違ってシリコンバレー北端へ行ったり、海岸の保養地方向に迷いこんだりで迷走してばかり。ところが迷っているうちにだいたいの道路名を覚えてしまい、知らず知らずのうちにシリコンバレーの地名と地理的な関係が頭に入っていた。こうした苦労は、後日、ニューヨークやワシントンDCのダウンタウン(下町という意味ではなく、中心街という意味)をドライブするときに完全に生きた。
 道を聞きがてら街角で車を止め、ピザ店に入ったつもりでピザを注文したら、そこはアイスクリーム店だった。
 そうすると若い女の店員たちから
「なんでピザなんか!」
 とブーイングを一斉に浴びせられた。
 親切な女性客が
「ここはアイスクリーム店なの」
 と教えてくれたので勘違いにやっと気がついた。
 日本だと店員が
「すいません、アイスしかないんで」
 と謝ってくれるのに。文化の違いですね。ともあれ道が分かったので行くと間もなく百貨店の「メイシス」の茶色い建物が見える。昨日までこのへんで「歩く奴隷」になっていたのがウソのようだ。
 メイシスを訪れた。正面玄関に入ってすぐの一階の売場にしゃれた茶色い三つ折りのウォレット(財布)があった。ブランド名はペリーエリス(PERRY ELLIS)。日本でポピュラーな二つ折りではなく、これは三つ折りである。

 昔、ニューヨークのケネディ空港で乗ったジェット機で、NYCで小さな商社を個人経営しているという若い女性と隣りの座席になったが、雑談で彼女は
「日本人の男性は背広の左胸ポケットから細長い財布を取り出すけれど、ドラッグショップやタクシーでこれをやるとピストルを出す動作と間違えられて危険よ。撃ち殺されることもあるわ。ウォレットをズボンのポケットに入れておきなさい」
 と教えてくれたのを思い出す。

 本革(Genuine Leather)製の三つ折りウォレットの値段を聞くと二十四・九九ドルだったので買い求める。売場の彼女はスペインっぽい美人だった。
「どこの国の人?」
 と聞くので、
「ジャパニーズ」
 と日本人であることを告げ、立ち話をして仲良くなった。
 さて車を走らせて昨日タクシーで行ったスーパーのラッキーへ。ここで素晴らしいカリフォルニアワインを発見した。六ドルくらいのCorbett Canyonだ。前日のが黒っぽくどろっとした感じなのと比べると血の滴るような赤い色をしていて、グラスに注ぐとアルコールっ気がぱっと散る感じだった。
 ラッキーの店内にあったバンク・オブ・アメリカのATMで、試しに日本から持ってきたシティバンク(CITIBANK)のキャッシュカードを試してみたら、たちまちドル紙幣が出てきたのでうれしくなった。自分の口座の日本円の残高が減るのに喜ぶのもなんだが、打ち出の小槌をつかんだようで楽しくなる。
 出てきたドル紙幣といっしょに
「バンク・オブ・アメリカの口座ができてるから電話がほしい」
 というシートが出てきた。これでゲンナマの心配はなくなった。
 アメリカ合衆国に来たその日から「カネを使うと資源の無駄遣い」と感じるようになった。たぶん、大量消費文化のきわめつけの国のアメリカにいるからなのだろう。こっちでは節約は美徳という言葉は存在しないかのようだ。どっさり消費する人は凄い人。まるでバブル全盛期の日本だ。この国における資源の浪費は日本どころではない。アメリカ人は、食べるのも飲むのもギャス(ガソリン)も、ビルの中をガンガンと冷房するのも、なにもかも日本人の二倍以上である。


 ▼サンフランシスコへ日帰りドライブに

 三日目(六月二十一日・日曜日) 日常を離れ、日常を遠くからながめるのが旅なのだとしたら、日本から目を離すわけにはいかない。ノートパソコンでインターネット上の朝日新聞や毎日新聞を読む。朝日新聞のインターネット新聞asahi.comの発信元コンピューターは、このシリコンバレーにある。他方、毎日新聞の発信元コンピューターは日本にある。しかしインターネットでは、情報源がどの国にあろうとおかまいなく、一瞬で情報を開示してくれる。インターネットは偉大だ。地球を一つにする。アメリカにいる日本人をしっかりとサポートしてくれる。しかも無料だ。
「かたじけない」
 という気持ちになっていく。
 在外邦人支援としてのインターネットの役割は大きいと感じた。
 本日は日曜。海へ行くか、それともサンフランシスコへ行くかと考えた。結局、朝八時にサンフランシスコへとひとり出発した。道路はがらがら、やがて右にサンフランシスコ湾の青い海原と野球場が見え始め、四十五分で市街地に着いた。
 そのとき、日曜朝のサンフランシスコのビル群は神秘的なお伽の国の雰囲気に包まれていて、高速道路上から見るメルヘン調の建物が、すべてアリスの国の舞台装置に見えてしまった。魅了され見とれていたら、間違ってベイブリッジに乗ってしまう。
 着いたところは殺風景な港湾工業地帯。その先はUCB(カリフォルニア州立大学バークレー校)の大学街。いてもしかたないのでとんぼ帰りをする。
 行くときは無料だったが、帰りに橋の入り口で通行料金を二ドル払うはめになった。すごく狭く感じる橋の走行レーンを猛速で突っ走るベイブリッジのドライビングは怖いだけだったが、これもアメリカ横断に慣れるための予行演習、二ドルはその授業料と割り切ることにした。
 埠頭を右に見ながらゆっくり進むと、観光名所のフィッシャーマンズワーフにたどり着いた。久しぶりなので懐かしい。思い出がいっぱいの場所だ。
 帰りはサンフランシスコの市街地のど真ん中を南下することにした。サンフランシスコ北端のフィッシャーマンズワーフから丘を越えて南へ行く坂道は、とても勾配がきつい。坂道を登りきったところでスピードを落とさず突っ走ると、坂の頂上でクルマが宙に浮いてバウンドするのでスリルがある。
 たまたま坂の頂上で赤信号にひっかかると、対向車と逆Vの字で対面することになる。左前方で停車しているタクシーのお腹が丸見えになるほど角度があるので、クルマがずり落ちないよう右足が痛くなるほどブレーキを踏み続けるはめになる。サンフランシスコでレンタカーを借りるのをためらう観光客のほとんどは、アメリカ人も含めて、この急な坂道に恐れをなすのが理由らしい。

 華やいだ雰囲気のサウス・サンフランシスコで、丘の中腹にあるスーパーのラッキーに入った。夕食の食材を買い求め、レジの列に立ったら日本人の女の子三人がぼくの後ろに並んだ。三人は、この二、三ブロック先で月一千ドルの一ベッドルーム付きのアパートで暮らしているとか。
 涼しそうな並木道のエルカミーノ・リアルを南下していたらBurlingameという素晴らしい街に出くわした。まるで西部劇の街。それっぽい雰囲気のホテルが目抜き通りにあった。この街の駐車場にカムリを入れ、サラダとパウンドケーキとスープとコールドティーを八ドルでいただく。おいしい。散歩したらカルトレインの駅があった。駅前でサムソナイトを半額で売っている店を見つけたが、衝動買いを我慢する。
 さらに南下すると、百貨店とホームセンターを足して二で割ったような「シアーズ」があった。シアーズのチェーンは全米にまたがり、その規模は世界トップ級。一階の紳士服売場のレジでクリスティーナという可愛い子に日本語の発音をいくつかレッスンしてあげたら友だちになってくれた。


 ▼アットホームな語学学校を発掘

 四日目(六月二十二日・月曜日) 週末が終わった。アメリカの常識を学ぶときがきた。語学学校を朝からしゃかりきに探す。ベイエリア(シリコンバレーからサンフランシスコあたりの湾岸地域)の分厚い電話帳をくって電話番号を調べ、片っ端からダイヤルするが、なかなか電話が通じない。
 あきらめてホテルのフロントでバーバラ・ストライサンドとジェフ・ブリッジスの映画「The Mirror has two faces」(邦題は不明)のビデオテープを借りて部屋で見る。結婚したのにセックスしてくれない夫に妻が悲しくなって怒る筋書きのこの映画はセリフが多く、英会話の勉強にぴったりで、何回も見ているうちにジェフのしゃべりかたがすっかりじょうずになってしまった。このジェフ流英会話により、飛行機で隣り合わせたテキサスのバプティスト派信者の女子高校生に新約聖書の解釈を教えてあげたことがある。
 英語が外国人に初めて通じたときの歓びは言うに及ばない。そして英会話のレベルが一段また一段と上がっていくときに感じる歓びは、国際ビジネスか、はたまた国際恋愛かと果てしがない。

 やっとサンノゼ市サラトガ・アベニューにある「センチュリー語学学校」(Century School of Languages)のミセス・モリシゲ校長に電話が通じた。モリシゲ校長の夫は日系人。しかしこの女性校長は日本語がしゃべれない。ゆっくりとした英語の説明で授業料のことやグループレッスンと個人教授の違いなどを教わる。そしてこれから学校へ行くと約束する。
 大失態を演じてしまった。時間が余ったので、学校の近くのエレクトロニクス関係の店に入ったのだ。そしてトイレを借りて売場に出ようとしたら、間違って屋外へ出るドアを開いてしまい、けたたましい警告音が鳴った。商品持ち逃げ泥棒と間違った店員たちが
「なんだなんだ」
 と血相を変えて殺到したので
「sorry,sorry」
 を何回も繰り返し、やっと信用してもらって退散した。
 マクドナルドを目印にクルマを走らせた。マクドナルドの向かいに茶色いビルがあり、その二階にセンチュリー校があるという。
 ところで、マクドナルドとそのまま発音してもアメリカでは通じない。「マクダーナルズ」とダにアクセントを置いて発音しなければ、こんりんざい通じない。マクドナルドはどこへ行ってもランドマーク(目印)なので、発音できないと困ってしまう。
 入学を決めた学校は入会金五十ドル、グループレッスンは三時間で一回二十二・五〇ドル、個人授業は一時間三十五ドルということで、とりあえず四日分を明日の初日にクレジットカードで支払うことになった。午前十時から午後一時がグループレッスン、午後一時半から一時間が個人指導と決まる。ぼくのようなday by dayの生徒は毎週一回、授業料を払えばいいらしい。生徒数は四、五十人くらい。生徒はヨーロッパ系が多かった。東洋人は少数派とか。壁に貼ってあった授業風景の写真を示して人種分布を女性校長が教えてくれる。
 ぜひ旅行者たちに、このような学校に三日でもいいから入学することを勧める。習うのは語学でも料理でもパソコンでも馬術でも、なんでも構わない。確実に友だちが増え、かけがえのない思い出ができるだろう。電話帳を見ると、小さな市でも教養や趣味の学校がたくさんあった。
 学校にとりあえずさよならをして、こんどはサンノゼのダウンタウンへ。ところがルート280(ツゥエイティと発音する)を間違って手前で降りたら、キャンベルというところに着いた。そしたらなんと、けさ検討していたゴールデンゲート・スクールが道路右沿いにあった。若い学生が入っていったので気がついた。校舎ははるかにましだけれど、きっとあそこはマスプロ学校なんだろうなぁ、と自分にいいわけをする。ゴールデンゲート・スクールは一日三時間で二十五・五〇ドルなので、さっき決めたところより少し高いし。
 ゴールデンゲート・スクールを右に見てまた少し行くと、右側にビュッフェと書かれた看板が。入ってみる。おお。入り口のレジスターの隣に卓抜した掲示が。
「当店ではいまだかつて人種差別はしたことがない」
 と書いてある。
 その通り、黒人も白人も東洋人もいっしょ。なんと五・九九ドルでバイキング方式の食べ放題。信じられない。ルートビア(root beer)とかいう飲み物がおいしい。クセがあるが、コーラとなにかを足したみたいで味がよく、ガブガブと二杯も飲む。beerといってもアルコールは全然入っていない。あとはライスや肉、野菜にスープ、デザートとおなかがいっぱいになった。これは自炊より安上がりだ! サニーベールにこれがあれば毎日通いますのに……。
 ホテルに帰るとほっとする。毎日夕方になるとくたくただ。少しずつ時差ボケが治っていくのがわかる。ところで観光で通過するのと定住するのとまるで外国の印象が違いますな。たった四日目なのに、サニーベールのジャンクションに近づくと胸がときめいてくる。通過しようものなら悲恋を思わせる狂おしさだ。そしてサニーベールへ到着するやいなや、どこからか
「お帰りなさいませ」
 と三つ指を突くような女声がする。その幻の声に、ぼくは
「ただ今」
 と答えるのである。


 ▼アメリカの常識学の教師が決まる

 五日目(六月二十三日・火曜日) 初登校の朝がきた。教師はアイルランド系アメリカ人のリチャードと決まった。初老だが少年っぽいところがあり、知的なタイプだ。俳優のクリストファー・ランバートそっくり。海軍将校の経験と航空会社幹部だったという経歴から、海と空に詳しい。そしてアイルランドの人たちは、ユダヤ人や日本人に似て神の密命を帯びたような民族性があると思うので、ラッキーと感じた。ちょうど北アイルランド紛争の歴史的終焉が近づいていたときでもあり、話が弾んだ。
 生徒はロシアの女性が二人、東欧の女性が一人、そしてドイツ人のピーター(ドイツ語読みでペーター)、スイス人プログラマーのトーマス、ハンガリー人の少年チャバ、南米から来た女性プログラマーのグロリアらがいて、ぼくは韓国人女性のヤングの隣に席をとってテキストを見させてもらう。
 最初はばかみたいな
「メアリーさんの家に男女二人が招かれてどうこうした」
 という授業が一時間も続いたが、後半に授業内容が一変、不動産の物価の話やコンピューター界の最新動向、スポーツなどの話題が出て充実した。
 入り口に陣取る一七歳の女性秘書オルガからベイエリアの日本語電話帳をただでもらう。
 午後一時四十分から個人授業がスタートした。まず英字新聞の見出しの読み方から教えてもらう。地元サンノゼ・マーキュリーズ紙を教材に、すべての紙面にわたって解説される。リチャードによると
「知らないことや興味のないことを書いた記事は、見出しだけ見てもわからないのはアメリカ人も同じ」
 だそうだ。納得する。
 この実戦的な授業で初日から収穫があり、満足した。英字新聞見出し恐怖症も消えた。
 ところで、サンタクララ在住の女性システムエンジニアのゲールと電話で感情的な行き違いが起きて、前から楽しみにしていたきょうのディナーがキャンセルになってしまった。悲しくて寂しい。
 しかたなく部屋でビーフ焼きそばを料理しようと牛肉のさいころを焼いているうちに煙が出過ぎたのか、天井のセンサーが作動してけたたましい音を上げた。換気ファンを強にしてもだめ。窓とドアを両方とも全開にしたら、やっと空気が流れて鳴りやんだ。隣の部屋の男は意にも介さず、平気でテレビを見続けて笑い声を立てている。変わった国だ。
 女救世主が登場するSF映画「フィフス・エレメント」を見ながらウイスキーをいただいてさびしさを抑える。
 酒を飲みながらベイエリアの電話帳を調べてわかったが、日本の食材を販売しているスーパー「ヤオハン」と、日本語の書籍を売っている書店の「紀伊国屋」が学校の近くにあった。あした行こう。


 六日目(六月二十四日・水曜日) また朝、道に迷った。こんなことではアメリカ横断が思いやられる。午前九時十分に出たのに、学校へ到着したのは十時十五分。原因がわかった。サラトガと名のつく道路がもう一つあったのだ。それはサニーベール・サラトガ通り。この表示がルート280に表示されていて、そこでジャンクションを下りたからおかしくなったのだ。今度は間違わない。そもそもわかりやすいローレンス・エクスプレスで行けば良かったのだ。
 それにしても280や101に合流するときは凄まじい。合流直前、離陸前のジャンボジェットみたいにゴーッと四リッターのエンジンをふかし、一気に時速六十マイルにスピードを上げ、左に車がいようがいまいが本線へと突っこむ。これでだいたい向こうがよけてくれる。おそるおそるとか、遠慮しいしいだとかえってあぶない。
 そもそも、ここシリコンバレーの運転マナーは世界でも最高だ。譲るべきは絶対に譲る。信号のない交差点でも順番を完璧なまでに守る。遠慮しすぎていたら、女性ドライバーにあきれ顔をされてしまったこともあったっけ。
 通学路の途中にあのアップル社があり、ちょっと迂回すれば名にしおうヒューレット・パッカード社や3COM社、あるいはインテル社に出くわすという土地柄、刺激が多すぎてやや疲れるが、オール英語なので(ボキャ貧の小渕首相ではないが)どんどんとボキャブラリーが補強されていく。
 授業はいまのところグループレッスンもプライベートレッスンもwhat I wantedだ。授業中、突然、学校側から
「七月四日の独立記念日を祝って七月一日にアルマデン湖へ日帰りでピクニックに行く」
 というアナウンスがある。これもwhat I wantedだ。
 十五分間の休憩時間、ベランダで手すりにもたれてタバコを吸っていたら、韓国人女性のヤングと、それにドイツ人のピーターと三人で雑談になった。ヤングはソウルから来た半導体技術者の妻だ。ピーターはドイツのシーメンス本社の広報担当者で、パソコンなどを製造しているので、ドイツに来たときはぜひ寄ってくれとのこと。
 正午に授業がいったん終わり、個人授業開始の午後一時半までの空き時間を利用してヤオハンと紀伊国屋へ。近い。道路を隔てて学校の反対側をクルマで少し行ったところにあった。
 ヤオハンの店内に入ると、左に紀伊国屋があった。真っ先にシリコンバレー周辺の「暮らしの情報・日系職業別電話帳」を買う。それに週刊ポストを一冊六・七五ドルで買う。現地の日本語新聞(一紙六十五セントくらい)もたくさん買った。この書店のパソコン書コーナーでは、ホームページ作成のためのHTMLのガイド書しか置いていないのが印象的だった。ここはプロぞろいのシリコンバレーなのだから一般のパソコン入門書は必要ないということなのだろうか。
 ヤオハンでは一・五合ビンのでぶい月桂冠を一本七・五ドルで。つまみに十ドルもするカブの漬け物。これはカブのほかにコンニャクや海藻が入っているという変わりもの。出口近くの陶器店でおちょことおちょうしも買い求める。
 昼食はヤオハン内の日本食堂「みやび亭」で食べる。寿司を食べようとも思ったが、麺類は久しぶりなのでネギラーメンにした。六ドル弱。マクドナルドよりはずっといいが、日本のラーメンに比べると、さほどおいしいとはいえない。ねぎも青い部分が多い。しかしアメリカで温かい日本食が提供されるというのはすばらしいことだ。
 午後五時過ぎにホテルの向かいのサニーベール・タウンセンターへ歩いてショッピング。雑貨店で、昔から欲しかったウイスキー入れを十九・九九ドルで買う。西部劇でガンマンが持っているような平たいやつ。安い。この国は変わったのが安い。そして電器店チェーンの「ラジオシャック」で、強烈に時刻の数字が目立つ、はではでなデジタル時計を二十四ドルで買い求めた(日本に持ち帰ったら時刻が大幅に狂った)。
 だいたい必要なものがそろい、不足しているのは週末にデートしてくれる女の子だけになった。
 このタウンセンターで映画館を発見した。なんとタイタニックが一日四回ほど上映されている。タイタニックはまだ見ていない。
「絶対見るぞ。日本語の字幕などいるものか」
 と、ひとり張り切ることになった。
 日本円が再び下がっている。こっちにいると、円相場が非常に気になる。一万ドルの予算なので、円が一円安くなっただけで一万円の損害になる。この原稿の執筆時は百十三円なので、百四十三円だった当時と比べると三十万円も損した。


 ▼空には見知らぬ星座、踊る人々は盛装の異邦人

 七日目(六月二十五日・木曜日) きょうから基本ソフトが新しくなった。昨夜遅くからきょう未明にかけてウインドウズ98が発売になったということで午前五時半に起床する。早朝、ホテルの玄関先を通ったら、USA TODAY(五十セント)が毎朝ただでもらえると判明、もらう。早いもの勝ちみたいだ。
 さっそくFry'sサニーベール店に行くとしよう。州別地図のトーマス・マップの調べ方も上手になったことだし。

アメリカ合衆国の地図にもいろいろあるが、
地域別の地図はThomas Bros. Maps社
(1-800-899-6277 http://www.thomas.com)のものがピカイチ。
とくに同社のおひざもとのカリフォルニア州の地図はとても詳しく、
重宝する。
トーマス・マップのカリフォルニア州版は州全部をカバーしている。
シリコンバレーだけを詳しく知りたければ
サンタクララ版を購入するといい。
いずれも年度ごとに発行されるので、最新版があればなおいい。
巻末にストリート・インデックスがアルファベット順に掲載されており、
これを検索して地図の掲載ページを確認し、調べることになる。
通りの名前はロード、ストリート、ブルバール、アベニューなどと
いろいろあり、
たとえばアベニューは比較的道路幅が広い、といった違いはあるものの、
いずれも「〜通り」であることに違いはない。
高速道路も同様にフリーウエーやエクスプレスウエー、ハイウエーなどと
呼び分けている。
アメリカ合衆国の都市の多くは東西南北を走る道路が
碁盤の目のようになっているので、
地図さえあれば、番地を手がかりに目的地にたどり着くことはかんたんだ。
一方、全米地図はRand Mcnally社(1-800-671-5006)の
トラベル・アトラスが有名で、使いやすい。
表紙を開くと、クルマでハイウエーを走った場合の都市と都市の間の
平均所要時間が書いてあって、
大陸横断のスケジュール作成にあたって貴重な目安になる。
旅先でその州のページを開けば、だいたいのことはわかる仕組みだ。
いずれも書店で販売している。シリコンバレーの地図はFry'sにもある。


 まずローレンス・エクスプレス沿いのT・ZONEに到着。午前九時ぴったり。お店の担当者のミスター・カワカミが日本語で説明してくれる。それによると午前零時から二時間開店してウインドウズ98を販売したが、比較的静かだったという。
 また、DVDはアメリカではかなり売れているとはいえ、普及したとまではまだ言えないようだ。
「パソコンとウインドウズ98とDVDの組み合わせによる映画再生は、アメリカで流行しますでしょうか?」
 と質問するが、
「まだ未知数ですねぇ」
 ということだった。
 ただDVDソフトはFry'sサニーベール店にたくさんあったっけ。ぼくの希望はというと、コンピューターに映画を含むすべてのメディア(新聞、ラジオ、テレビ、書籍)が統合されることなので、まずDVDあたりを入り口にコンテンツを華やかにしてもらいたいものだ。技術の進歩速度と機器・サービスの値段の下がり具合から推測すると、遅くとも二〇一〇年までにはメディア統合が進むはず。
 とはいえアメリカは家が広いから、かさばるVHS規格のテープを何十巻も集めても、あまり苦にならないらしい。
 九時三十五分、今度は隣といっていい近さにあるFry'sサニーベール店へ。ここは二十四日の午後十一時から午前一時にウインドウズ98を販売、一千人前後の客でごった返した。初日のウインドウズ98の販売本数は五百本くらい。そんなことを聞いてから女性マネジャーに写真撮影の許可を求めたら、
「なんで写真を撮るのよ!」
 と、彼女は怒髪天を突くというくらいの怒り方をした。
 彼女の体はふるえ、つられてぼくの両足もふるえた。カメラを肩に下げていたのを見て、さっきから怒っていたのだろうか。撮影禁止とは知らなかった。T・ZONEでは撮影自由なのに。こりゃだめだ。
 彼女は
「入り口でセキュリティチェックを受けてよ」
 と主張した。
 すると人の良さそうなアメリカ人男性が近づいてきて彼女に聞こえないよう、こっそりと言うには
「行ったらフィルムを抜かれちゃうよ」
 ということなので、素通りして帰る。
 結局、店内は撮影できず、建物を外から映しただけ。
 息せき切って学校へ駆けつけたが、授業に十分ほど遅刻した。この学校の生徒はみな忙しい人たちばかりなので、だれがどれだけ遅刻しようと、だれも意に介さない。
 教室ではロシアのプラチナブロンド女が笑い転げ状態になって、こっちまで伝染し、笑いをこらえようとしても止まらなくなってしまった。「笑いこらえ地獄」には実に苦しいものがある。
 授業中、英語の発音がかっこいいボブが来て、七月一日のピクニックの参加可否を問う。クラスメイト一同のほとんどが行くことになった。
 十五分間の休憩でベランダに出てピーターから名刺をもらった。ヤングがピーターと別れを惜しんでいた。名残は尽きないので、今夜九時から学校の近くのバーで送別会をしないかという。参加しよう。こっちに来てからまだ深夜外出をしたことがないので。
 校内の自動販売機でチョコを買おうとするが、六十セントを入れてもつっかえたので、秘書のオルガ嬢から出してもらった。髪は金色に光り、一七歳の肌は抜けるような白。いい子だなぁ。ぼくの気分はすっかり思春期に。
 ホテルへ直帰する。十分くらい前からサイレンの音がすごい。消防車とパトカーと救急車がひっきりなし。こっちでは、救急車が出動するとき、必ずハシゴ付きの消防車も出動し、救急車と先陣争いをする。いま三階に住んでいるが、急病で動けなくなっても窓から助けてもらえそうだ。
 寿美に電話をした。むこうは午前七時四十四分(日付は当然あしただが)。語学学校の電話番号を伝えておく。犬のモモが化粧品をくわえようとして電話口で大変らしい。電話でこっちのサイレンが向こうに伝わり、
「ぶっそうだわね」
 と言われた。
 あ、そうか。犯罪事件が発生したのだろうか。急病人だと思いこんでいたので別に怖くはなかったが。そういえば、今月上旬、ホテルの向かいの飲食街でピストル発砲殺人事件があったと近所の人に聞いた。
 学校までタクシー代金がいくらかかるか知りたくて電話で聞いたら
「一マイル二ドルだ」
 という。
 パーティの約束の夜九時まで時間があるので、現金を手に入れようとキャッシングがてら散歩をする。サニーベール・タウンセンターの反対側へ行くとあるわあるわ、街角はATMだらけ。手数料なしで八十ドルを下ろすことができた。
 昼食のBBQ(バーベキュー)は三品で三・九ドル。ドリンクは七十九セント。これじゃ自炊よりはるかに安くつく。なんで苦労して自炊しているのかわからなくなってくる。それにしても、こっちの値段はなんでも最後に九九がつく。日本のバーゲンセールの九百八十円とか千九百八十円とか九八がつくのと少し違う。
 危険なロマンスに発展しかねない事件に遭遇した。大きな灰皿が置いてあるメイシスの正面玄関前でタバコを吸い始めたら、二〇歳代後半くらいの女性が寄ってきて、
「たばこをちょうだい」
 と唇に指を二本当てた。
 マルボロを一本差し出して火を着けてあげると
「時間はある?」
 と唐突な質問が彼女の口から出された。
 ぼくは考えるいとまもなく反射的に
「ノー」
 と答えた。
 すると彼女は
「ノーノーノー、時計を見せてということだったの」
 と言い直し、ぼくの腕時計をチラリと見てからさっと消えた。
 このだだっ広い駐車場で、一瞬で姿を消したのには驚いた。いやはや、どきどきするなぁ、もう。「時間がある」と答えたら、どういうドラマが展開されたのだろうか。
 日本人駐在員から聞いた話では、日本人はだいたい一回はこの種の女性から街頭で誘われるのだという。日本人はみな金持ちだから。

 買ったばかりのクレイボーンで上も下も決めてタクシーで学校の駐車場へ。しかし誰もいない。夜のとばりが下り始めた午後九時ジャスト、ピーターのシボレーが現われた。助手席にグロリアがいた。一瞬、日本の右ハンドルの感覚でグロリアが運転していると思った。そしてトーマスとヤングも来た。五人全員がピーターのシボレーで近所のレストランバー「ブラックアンガス」(黒毛牛という意味か?)へ。この店にダンスフロアはないが、週末は座席を取っ払ってダンスを楽しむのだという。
 話をしてわかったが、男は偶然、全員がサニーベールに住んでいた。それを聞いて男と男の連帯感が芽生えたのがわかった。華やかに会話は進み、全員が互いに住所やE-mailアドレスを交換する。
 たばこを吸いたくなった。カリフォルニア州はスモーカーに厳しく、店内では吸えん。バーの庭に出ると、若い男女がたばこを吸っていて「シェット」「ファック」などの下品な会話をしていた。まるでスラングの品評会みたいで、つい聞き耳を立ててしまった。
 有名企業の半導体エンジニアを夫に持つヤングがグリーンカード(永住権の証明カード)の話をする。これで三年目のアメリカ滞在だが、いまだに永住権を取得できないという。


グリーンカードとは、アメリカ合衆国の永住権を証明する
免許証大のIDカードのこと。
グリーンカードがあると合衆国で労働の自由が無期限に保障されるので、
新天地を求めてアメリカへわたる人々の間であこがれのマトになっている。
かつて柔道のインストラクターや寿司職人にかんたんに発行されたが、
最近は発行条件が非常に厳しく、取得は狭き門となっている。
取得できなくて、しかたなく語学学校や音楽学校に通い、
学生ビザでアメリカに滞在している日本人も多い。
グリーンカードには、
直近親族(親兄弟や配偶者)がスポンサーになるケースや
企業などの雇用に基づくケースがある。
グリーンカードの色は、近年、緑からピンクに変わった。


 しかし何回見てもヤングは森口博子に似ている。学校で森口博子が写っているNHK紅白歌合戦のデジタルムービーを見せることにした。
 深夜十一時四十五分にパーティーはお開きとなり、最年長のぼくが支払いを済ませる。チップこみでたったの二十五ドルだった。若いトーマスを帰らせて、男二人、女二人の四人でダンスに行くことにする。行き先はサンノゼのダウンタウン。到着した先は華やかなダンスホール。ここはすばらしく華麗な世界だ。ミニスカートやカクテルドレスできれいに着飾った男女がぎっしり。入りきれず外にも人また人でぎゅうぎゅう詰め。時は未明。空には見知らぬ星座。踊る人々は盛装の異邦人たち。ラテンの女性は踊りが三度の飯より好き。送別される主賓のピーターは運転手をやらせられてコーヒーを飲み、終幕後は四人をシリコンバレーの南端から北端まで宅配係りを務めるはめになっていた。


 ▼足を組み、人を呼び捨てにし、笑いたければ笑う

 八日目(六月二十六日・金曜日) きょうからグループレッスンの先生がゴーシャという身重の金髪女性になった。つわりがひどいが、ドクターストップを振り切ってきょうの授業に臨んだ、という。身振りと表情がすごくチャーミングであった。はじめてこんなタイプの人に会った。ゴーシャのムードやゼスチュアは、映画「王様と私」のデボラ・カーに雰囲気が似ている。彼女は白人独特のトロトロした米語を話す。シリコンバレーでは白人は半数以下の少数派なのだが、でも白人の話す独特の米語の発音とアクセントを知らないと、白人と交際できなくなってしまう。勉強していると、やはりアップツゥデートな言い回しが鬼門とわかる。
 彼女はユーモアに富んでクラスに笑いが絶えない。三時間、笑いっぱなしのこともある。巧まざるユーモアのセンスは多人種間の緊張をほぐすもの。テーマといえば、映画「風とともに去りぬ」がデジタル化されたという話題だ。これをサンノゼマーキュリーの紙面で勉強する。こっちでは、今ホットなブームとなりつつあるのは既に「タイタニック」ではなく「風とともに去りぬ」のリバイバルなのだ。まぁ、ていのいい復古盤だが、古いアナログのフィルムと、デジタル化でリフレッシュされたフィルムとを比べると
「ワゥ」
 という感激がある。
 タイタニックが若いラブストーリーだとすると、こちらはミドルエイジのラブストーリーだね。
 なお、ぼくが受けているグループレッスンはlife skillといって、英語を学ぶというよりも、むしろ英語を使ってアメリカの文化を学ぼうというもので、大変勉強になる。
 こっちの人たちはみな、授業中でもペットボトルのスプリングウオーターをひっきりなしに飲んでいる。サンドイッチまでパクパクと。日本人のぼくは、授業は神聖なものだと思っていたので、水を飲むどころか、最初は遠慮して身じろぎ一つしないで座っていた。郷に入らば郷にしたがえ。まねをして足を組み、水を飲み、人を呼び捨てにし、笑いたければ笑っているうちに、いままで日本でいかに緊張して毎日を暮らしてきたかがよくわかった。以来、肩こりは半減した。上がり癖もほとんど治った。
 クラスで日本人はずっとぼくひとり。ドイツ、グアテマラ、スイス、ロシア、ユーゴ、ハンガリー、韓国といった男女十人ほどに囲まれて、まるで世界地図を教室に広げたよう。しかしそれぞれの母国語を聞いたことは一切なかった。英語以外は話さないという堅い決意が感じられる。たいしたファイトだ。シリコンバレーだけあって、コンピューターに関係した学問や職業の人たちばかり。先生と生徒は一七歳から六五歳くらいまでさまざま。ぼくは校長と老教師に次ぐ最高齢者のひとりなので、言動にはきわめて慎重だ。
「パーティーなどの話を言い出すと、おごるはめになるから」
 というのは冗談だけど。

 ところでホテルの部屋でテレビのドラマを見ながら英語の世界にはまっていると、時々日本語の世界に戻ってハッとする。すると、それまですべて理解していた英語が再びわからなくなる。これは困ったものだ。はまったままだといいのに。
 テレビでは中国の歴史と文化を美化する番組をやっている。これはクリントン訪中と歩調を合わせた戦略番組らしく思った。日本人としては、なんとなく日本の頭越しにまた何か画策しているのかと疑心暗鬼になってしまうから不思議だ。午後九時五十九分現在、ほかの番組も中国報道一色だった。
 今夜はバージニアの女性写真家と電子メールで連絡がとれたのが唯一のなぐさめだった。バージニアへ行ったらデートしようっと。
 ところで今のところ、ぼくが構築した全米人脈ネットワークは、西はカリフォルニア一帯、東はニューヨークやワシントンDC、バージニアへ達する。電話番号などをセットしたら、インターネットや電話、ファックスを駆使してあちこち連絡が取れるようになった。こういうとき、ハイテク機器は便利。ノートパソコンとポケコンで、だいたい連絡が取れる。とくにポケコンのザウルスがあると、液晶画面にペンでさらさらと文字や絵や地図を書けば、それを世界中にあっという間にファックスできるので便利だった。
 あしたからアメリカ人のすべてがはしゃぐ週末。ひとりさみしく道路向かいの映画館でタイタニックなど観賞しようかと考えるのだった。


 ▼巨大な駐車場でクルマを見失う

 九日目(六月二十七日・土曜日) 朝、自分がだれで、どの国にいて、何をすべきなのかをまったく知らぬまま夢見心地で数分間を過ごす。なにげなくマライヤ・キャリーの歌、My allをかけると、桃源郷はさらに果てしない。コーヒーをいれたら、その香りでふと我に返った。九日目にして、こうして「アメリカに抱きしめられる」とは思ってもいなかった。
 前にニューヨーク(愛称ビッグアップル)を訪れたとき、夜ひとりでぼーっとしていたら、心がリンゴの芯の蜜にとろけたように気持ちよかったので
「これがビッグアップルか」
 と陶然としたことがあるが、そんなものではない。自我が吹き飛んでしまう桃源郷のすごさ、その甘美さは、とても口や文章では表現しきれない。これは間違いなくアメリカ人たちとの親密な交流からもたらされるものだ。
 午前八時半、サニーベールを出てスティーブンス・クリークを一路東へドライブした。この道路は変化に富むので何回走っても飽きない。スティーブンス・クリークをサニーベールから東へ向かうと、最初は亜熱帯樹の並木道だが、間もなく片側三車線のショッピングストリートに変貌し、ショッピングセンターやカー販売センターが延々と連なる。
 午前九時十分にサンホゼのダウンタウンへ着いた。コンベンションセンターの隣にオープン料金五ドルの駐車場を発見し、クルマをここに入れて街へ。頭上に旅客機が浮いて止まっているかのようなゆっくりとした速度で飛んでいた。

 自分の車を見失って呆然とするハプニングに見舞われた。サンノゼに二時間ほど滞在し、サン・カルロス通りを経てまたスティーブンス・クリークへ戻ったときだった。ショッピングセンターを見つけて入る。店内でウインドウ・ショッピングを終え、さぁ帰ろうと外へ出て自分の車を探したら、ない。ここは巨大な駐車場。青ざめた。盗まれたのか。この駐車場にはカートが行き交い、金髪女性が楽しそうに乗っていた。まるでゴルフ場だ。うろたえたぼくの体に灼熱の太陽が照りつけるが、乾燥しているのであまり苦にならない。
 結局、ショッピングセンターの構内を二往復して三十分後にやっと発見した。もう二度とこんなへまはやるものか。
 ところで、アメリカでは、駐車場が少し広いと、必ずといっていいほど敷地内のどこかに段々がある。これは敷地内を走るクルマのスピードを殺すためにある。もちろんクルマのタイヤで踏んで通過してもかまわないのだが、これをなめると痛い目に遭う。初体験では恐る恐る通過するのでショックはほとんどないのだが、二度目になると
「さっきはたいしたことなかった」
 というのでスピードを落とさずに走り抜けると、
「どすーん」
 と凄いショックが来る。
 クルマのどこかを痛めたかと心配になるし、頭をクルマの天井にぶつけるしで、いいことはない。

 午後四時四十五分、映画「タイタニック」を観賞するときがきた。場所はサニーベール・タウンセンターの二階にある映画館「AMCサニーベール6」だ。封切りではないので、わずか三・五ドル。信じられないほど大盛りのパップカーン(ポップコーンの現地発音)に塩をぶっかけてもりもり食べる。アメリカ人は男も女もみんなそうしている。
 なんでもありのアメリカでは、映画館で映画の上映中に野次怒号は当たり前、ヒロインがフィアンセに頬をたたかれれば
「シェット」(おしっこみたいなうんこという意味)
 などとブーイングが起きる。まるで英語で実況中継のドラマを見る思い。左隣の女の子もパップカーンをぼりぼり。
 映画のテーマは若い恋愛だった。この映画はポセイドン・アドベンチャーみたいな海洋パニックものだと思いこんでいたので、ラブストーリーだったとはちっとも知らなかった。沈没しようという客船で、男は愛する女性を救おうとする。後半、二人が凍えながら漂流するシーンですすり泣きが館内に漏れる。愛し合って離れられない二人がそんなふうに死に別れるしかないのを見て、胸に悲しみがキーンと走る。
 映画が終わった。週末のため早仕舞いして通れない巨大なショッピングモールを屋外で大きく迂回、まだ明るい午後八時の街を十五分かかってホテルへ帰る。部屋でマライヤ・キャリーのMy Allの歌声に酔いしれていると、タイタニックの映画の愛とマライヤ・キャリーの歌の愛が溶け合って一つになってきた。


 十日目(六月二十八日・日曜日) 遊園地に行くことにした。シリコンバレーの真ん中のサンタクララに遊園地があるなんて信じられないが、あるのだ。グレイトアメリカ・アミューズメントパークという。ギルロイのアウトレットに行きたい気持ちも強かったが、遊園地を選んだ。グレイトアメリカに行こうと、サン・トーマス通りへ行くが、わからず迷って方向違いのミルピタスへ出てしまった。ここで偶然、「グレイトモール」という巨大なショッピングセンターやらアウトレットを発見した。すごい広さだ。
 このときハッと思った。これではまるで「グレイト」と「アウトレット」の二語のキーワードでデータベースを検索したらグレイトモールを発見したようなものだ。ぼくって根っからコンピューターなのかも。
 グレイトモールを左へどんどん行くと食事ができるゾーンがあって、円形にずらりとマクドナルドやブレッド、総菜、飲料、アイスなどのコーナーがあり、よりどりみどり。マクドナルドが一番人気があって長い列ができていた。マクドナルドが嫌いなので、やきそばとジュースに六ドル、ピザに四ドル出して空腹を満たす。
 サムソナイトのバーゲンで四ドルの保温弁当入れを買ってビデオカメラ入れにする。弁当だと見なされるので車内盗難のおそれがなく、しかも直射日光や衝撃にも強い。大きさもぴたり。色は鮮やかな紫。われながら賢い消費者だと思う。
 クルマで再びグレイトアメリカを目指す。アメリカ人に「280に乗りグレイトアメリカで降りなさい」といわれたが、今度はそのルート280がわからない。あるのは680と880だけ。yard sale(アメリカによくある風俗で、庭先で家の不要品を販売すること)の最中の白人の主婦を見つけ、クルマを降りて道を尋ねると「McKiey(マッキー)」を右に、といわれるが、右に曲がっても280は見えず、とうとうあきらめた。
 立ち寄ったスーパーで食料品を買うとき、ずっと前にアメリカ人の友人からもらった二十五ドルの小切手(パーソナルチェック)をレジで出すが、IDがいるといわれ、ID代わりに国際免許証を出す。
 だがなかなか信用してくれず、
「小切手を発行したこの人物は何者だ」
 などと根ほり葉ほり聞かれた。自分で発行したパーソナルチェックならすんなり受け取るのに、他人の発行したパーソナルチェックの利用はやっかいだ。すぐ泥棒と疑われる。


 ▼時速百九十キロの恐怖のドライブ

 十一日目(六月二十九日・月曜日) リチャードから帝王学の授業を受けた。新聞を参考に学んだのはアメリカのビジネス動向である。期待していた日曜版のサンノゼマーキュリー紙に宗教欄は無かった。先生も苦笑い。コンピューター産業自体にコンピューター教なる宗教を連想する時代だもの、宗教欄がなくても不思議ないか。
 さらにゴーシャからグループレッスンを三時間受ける。週末に何をしたか、ぼくから最初に説明する。タイタニックを映画館で鑑賞した話、そしてグレイトアメリカに行くつもりがグレイトモールに行ってしまってギルロイのアウトレットに行く必要がなくなった話をして笑いをとった。
 韓国人のヤングの週末は強烈だった。
「レーサーの女友だちの約束をすっぽかしたのよね、そしたらパニッシュメント(罰)として深夜の101でサンフランシスコまで時速百二十マイルの恐怖のドライブを味わうはめになったの」
 と恐怖の体験を語った。
 オートナビにより超高速で走りっぱなしだったというが、百二十マイルといえば百九十キロもの猛速ではないか。怖い話ではある。
 授業後、グロリアとベランダで立ち話をしていたらラテン系とアジア系の人がアメリカでどんな扱いを受けるかという人種差別の話題に突き当たってしまった。ぼくは差別された記憶がほとんど無いのだが、彼女は日常的にあるとして日本人のぼくに同意を求めてくる。グロリアが差別を受けている? 信じられない。彼女はぼくと同じく緑の黒髪だ。あるいはグロリアは、母国でちやほやされているのと同様に、このアメリカでも王女のように扱われたいのだが、それが叶わず「ワン・オブ・ゼム」(その他大勢)として扱われているから「差別だ」と怒っているだけなのではないか。疑問が尾を引いた。


 十二日目(六月三十日・火曜日) 「時差ぼけ対策に効き目がある」という日本人記者のサチコさんのお勧め通り、朝食を肉料理、夕食をパスタにして二日目、そうしてみたら昼間眠くなくなり、体力も付き、とりあえずは絶好調だ。
 きょうのグループレッスンは、ゴーシャがつわりのためリサ先生がピンチヒッター。リサの話すスピードは速いが、やけに聞き取り易い。彼女がしゃべり始めると、一瞬後に意味が伝わってくる。
 リサは法律を「ロー」と発音せず「ラー」と言う。ちなみにクリントン大統領の発音は「ロー」と「ラー」の中間だと思う。とにかくそうしたワスプたちの発音が聞き取れるようにならないと、このアメリカで情報はたくさんは集まらない。
 レッスンはイディオムについて。これを全部おぼえてしゃべれれば完全なアメリカ英語なんだろうなぁ。
 リサが明日のピクニックで各自が持ってくるものを聞くので、ぼくは
「シーザーズサラダとドレッシングを持ってくる」
 と答える。五人分だ。あす七月一日はピクニック。
 学校の帰りに大型書店「バーンズ・アンド・ノーブル」(Barnes & Noble)に寄る。背の高い金髪の女性店員が親切にコンピューター書の本棚まで案内してくれ、ほしかった「speeding the net」がすぐに見つかった。内容はネットスケープ社がいかにマイクロソフト社に挑んだかという物語である。speeding the net(ネットワークのスピード違反)というタイトルからすると、いかにもネットスケープ社がスピード違反をしてマイクロソフト社を追い抜いたかのように思ってしまうのがどこか滑稽で、すごく楽しい。
 もう一冊、In the company of Giantsというシリコンバレーの成功者たちの群像の書も買い求めた。

 ところで、アメリカ人のレジの人は、支払いが終わるたびに必ずといっていいほど客の目を見る。目と目を見合わせるあいさつはアイコンタクトと呼ばれ、ぼくは日本でも外国でもこれを欠かさない。とくに外国では、道を歩いていてすれ違う人たちとアイコンタクトを交わすと、なんとなく無言で意思が通じ合うような気がする。
「自分はおどおどしていない。自信をもっているんだ」
 ということの表明にもつながり、犯罪の被害者になる恐れがどんどん減っていくような感じがする。
 アイコンタクトというと、日本では、たとえばJリーグの試合で選手と選手がボールをパスするときに敵に悟られないよう声を出さず目で合図をすることとか、飛行機でスチュワーデスが乗客の目を見ながら用事の有無を知ることとかを言うが、アメリカではむしろ心の交流のためにアイコンタクトが行われていた。

 朝から晩まで部屋とクルマの中でマライヤ・キャリーのMy Allをかけている。この歌を聴いていると、耳元で愛をささやかれているような気分になる。それに、滞在地の音楽を聴いていると情緒が安定する。その国の心に浸る手段としては、その国のヒットソングを聴くのが最高だろうと思う。


 ▼湖畔でピクニック、日本人を発見

 十三日目(七月一日・水曜日) ピクニックの日がきた。学校までの道を間違えて十三分ほど遅刻した。ところが何らかの手違いで学校のドアが閉じたままになっている。ドアの前ではリチャード先生をはじめみんながベランダでぼけっと待っていた。
 リチャードは
「時間をくれてありがとう」と、わかりやすいジョークを発し、
「喫茶店で授業をしよう」
 と提案するが、店も閉じていた。きょうあたりからアメリカ合衆国はお店も会社も一斉に独立記念休暇に入っているのだ。そこで彼のオールズモービルの車中で授業とあいなる。
 車中授業から戻ると、学校でトーマス、グロリア、チャバが待っていた。三人を乗せてカムリでピクニック会場のアルマデン湖に行くことにした。トーマスのナビゲーションとチャバの助言を得て道に迷わずに済み、三十分足らずで湖に着いた。湖畔でぼーっとしていると、こんな幸せがこの世にあったのかと感じた。自然のふところに抱かれて夢のようだ。
 裸足になり、みんなで砂地でバレーボールをする。男性と女性に分かれて試合開始。ぼくのトスは奇跡のように成功に次ぐ成功の連続だった。これではゲームにならない。これを見とがめたチャバから
「トスは交代しないとだめだよ」
 と注意される。
 チャバは一六歳だが、いつもぼくの言動を監視していて、なにかあるとすぐ注意してくれるのだ。おそろしく大人だ。
 一方、トーマスは非常に静かな性格で、いつもにこにこしていて、ぼくの情緒を穏やかにする。二人ともパソコンのマニアックな知識がすごい。
 そしてグロリアは口を開くたびに
「差別された」
 とぐちを言う。
 人種差別か。うーん。重い問題だ。十年前、サンフランシスコのホテルで、備え付けのカミソリで顔に少しけがをしてエイズウイルスの感染が心配になり、サンフランシスコの病院に駆けこんだとき、白人と黒人が別々の窓口になっていて、ぼくはたまたま白人の列に並ばされたが、そんな光景は今ではどこを見ても無いはず。

 突然、グロリアの太ももが肉離れをおこした。痛みで顔をしかめている。みんながグロリアを囲んで
「医者に行ったほうがいいんじゃないの」
 などと心配するが、数分すると歩けるようになり、クラスメートの肩に支えられて退場となった。
 ぼくも準備体操なしでバレーボールをし始めたため、あやうく右肩あたりが肉離れを起こすところだった。彼女からあとで聞いたところによると、訪米直後からから三日間というものアレルギーを起こして顔が膨れたという。おまけに薬や注射のアレルギーも併発していた。外国暮らしはだれしもストレスが貯まる。
 食事はバイキング感覚。焼けたソーセージや鶏肉や野菜、ジュースを勝手にとって食べたり飲んだりする。ぼくたち四人だけ少し離れた場所にいるが、浮いている感じはない。
 わぁ、他のクラスに日本人の女の子が二人いた。アツコとアヤコだ。日本語が通じる! そこでお互いに自己紹介する。
 チャバだけ水泳をする。ぬれねずみになって帰ってきたが
「寒くない」
 という。しかし水温は摂氏一七度、強がりに違いない。
 チャバと歩きながら女友だちの話をした。
 チャバは
「ハンガリーにガールフレンドがいるんだ。アメリカの女なんて目じゃないよ」
 と突っぱった。そして
「トオルは?」
 と聞くので、ぼくは
「woman in every port」(みなと、みなとに、女あり)
 という船乗りの言葉を引用した。
 チャバは
「はん?」
 と首を傾けるので、少年をからかってもなんだと思い、
「大人の話さ」
 とごまかした。
 ピクニックの後、グロリアと二人でサンフランシスコに行くことになった。レッツゴー。ルート101で行くが、ラッシュに引っかかって一時間余りかかる。ゴールデンゲート・ブリッジ(金門橋)を渡り切って右の観光スポットで下界を展望する。ものすごいという形容詞しか思いつかない巨大な橋、そして崖の下を見おろせば人の頭が米粒大。十年前に悩んだ高所恐怖症が今になってぶりかえし、少し吐き気がした。そこで金門橋をとって返してフィッシャーマンズワーフの「タランティーノ」という高級なシーフードレストランへ。生牡蠣がとてもおいしい。テーブルを担当したのはShamaineという美人だ。グロリアと英会話を楽しんで帰る。
 101でシリコンバレーへと帰る途中、タイヤがゴトゴト鳴るので
「これ、パンクじゃない?」
 とグロリアが心配し始めた。
 彼女を安心させようと、念のためギャスステーション(ガソリンスタンドのこと)へ立ち寄る。大丈夫。パンクしていない。ドライバーに居眠りをさせないため路面にわざとデコボコをつけて注意を喚起しているのだ。プレミアムを十四・四ガロン、一ガロン一・六二ドルで、しめて二十三ドル余り。シリコンバレーに来て二回目の給油だ。
 真っ暗になった森の中の細道を走り、やっとのことで高級住宅地サラトガの彼女の寄宿先へたどりつく。めでたし。アメリカに来てから最も楽しい一日となった。
 ただ、グロリアの口から「ディスクリミネーション(差別)」の一語が消え去る日はいつなのだろう。彼女は長男と同じ二四歳。
 フィッシャーズマンズワーフの目抜き通りで歩きながら何回も差別の体験談を繰り返すので、
「忘れなさい」
 と言うと、
「フォーゲット……」
 と独り言のようにつぶやきながら首を振った。
 この後、インディオの血を引く彼女の口からディスクリミネーションの一語が消え去ることになる。吹っ切れたのだ。でも、逆に少しだけ威張るようなほうに変貌していた。被差別意識の反動なのだろうと思う。


 十四日目(七月二日・木曜日) 独立記念日の週なので学校はお休み。教科書や英字新聞で英語の予習復習をすればベストなのだろうが、せっかくドア一枚外は英語の生きた教科書(メイドはスペイン語しかしゃべらないのだが)なので外へ飛び出すことにした。ヘッセの小説「車輪の下」のように優等生になりきれなかったぼくは、こんなところでも馬脚を現わし、行き先はあきらめきれない遊園地のグレイトアメリカ。
 ホテルから車で高速道路を通って十分ちょっとでやっとグレイトアメリカを見つけた。でっかい駐車場に着く。駐車料金は六ドル。車を置いた場所を忘れるとパニックなので、しかと覚える。一回ぱにくったことがあるのでシビアだ。
 入場料は三十二ドル。ぬいぐるみやバスケットボールを賞品とするゲームが面白い。一番楽しいのは、水を入れた大きなビンがたくさんあって、そこにリングを投げるとリングがキンキン音を立てて跳ね上がり、うまくビンの口にはまるとぬいぐるみがもらえるシステム。心を無にして遊べる。二ドルで六個のリング。惜しい惜しいで残念でした。
 あちこちから黄色い絶叫が聞こえる。ジェットコースター、トップガン、擬似的バンジージャンプ、頭が下になる海賊船などさまざま。絶叫マシンだけで優に十くらいある。日本人はいない。
 それにしてもシリコンバレーのど真ん中にこんな大きな遊園地があるなんて、まだ信じられない。近くにはインテルの青色の本社ビル群もある。
 グルービーという七〇年代、八〇年代のラジオのディスクジョッキー館を発見、幸運にも四時半の開演に待たずに入場できた。黒人女性がまるでSF映画「フィフス・エレメント」に登場する俳優のようにはしゃぎまわってしゃべり、そして踊る。十数人のダンサーや歌手が次々に登場して踊りと歌のショーを繰り広げる。一瞬も飽きさせない。すごく面白い。
 グレイトアメリカで乗った乗り物はゴンドラだけ。出発のとき若い白人女性が
「by yourself?」(おひとり?)
 と聞きながらゴンドラを優しくそっと押し出してくれた。
 地上に降りて歩いていたら、突然、女の子の幼い歌声でタイタニックのテーマソングが遊園地に流れた。だれが歌っているのだろう? 哀しみを帯びたトーンに衝撃を受け、立ちすくんだ。
 「あなたとの距離がどんなに遠く離れていても、わたしはあなたを感じる。あなたは再びドアを開く。もう恐れることは何一つない」
 歌詞は英語だが、歌っていることの意味がなにもかもはっきりと理解でき、アメリカの大衆との距離をあまりに身近に感じたので、しばらく歩き出せないでいた。そしてこの旅で、ぼくはひとりアメリカのパラダイスの扉を開こうとしているのだ!

 遊園地に遊ぶ人々の肌の色はさまざまだった。父親の肌は白、髪の毛は金色。なのに子どもの肌は茶色で髪の毛はほとんど黒に近い焦げ茶色。母親は子どもを夫に預けて絶叫マシンらしい。人種のルツボだ。
 つぼみを開いたばかりの女性の、豊満な真っ白な肉体が目の前にあった。胸元を大きく開き、両足はほとんど露出している。どの女性も肌を隠さず、惜しげなくさらけ出すこのアメリカ。天国とはこういう場所なのだろうか。はたして偉大なる(グレイト)アメリカは遊園地か。


 十五日目(七月三日・金曜日) 朝食は白滝と薄いお肉二枚に加えて、ねぎとなめこを入れたスキヤキにした。小さいパン二個にバターとジャム。アップルジュースとコーヒー。ブラックオリーブ四個。すいか一切れ。ホテルのバイキング・ブレックファーストより凄い内容だ。飲み水やコーヒー、そして調理用の水もスプリングウオーターによる。教室や車の中でのどの乾きを癒す水はもちろんこれ。真夏のアメリカでは、とくに南部を横断するときは、スプリングウオーターは欠かせない。想像を超える猛暑の地では、ノドが乾いてから水を飲んだのでは遅い。ノドが乾く前に水を飲まなくてはならない。これを自分によく言い聞かせることにした。
 午前十時三十分にパロアルトめざして出発。東西を走るセントラル・エクスプレスを初めて利用する。オレゴン通りを右折して、うっそうと繁る静かな並木道をゆっくり走ると夢見心地になった。こんなところに家を持ちたい。もちろんサニーベールもいいけれど。
 行き当たりばったり走っていたら、小型飛行場を見つけた。パロアルト・エアポートという。自家用機を持つ人たちが盛んに機の整備や燃料詰め、荷物搭載などにいそしんでいた。高級オープンカーのリッチな人もいた。空港事務所ではフライトプランを書きこんでいる男性もいた。ヘリやセスナがさかんに離着陸を繰り返している。
「自家用機を買おう」
 とは思わなかったが、せめて一回でも自分で操縦して飛びたいと思った。一ヵ月か二ヵ月、アメリカの飛行機学校に通えば、小型飛行機の免状がもらえ、アメリカでも日本でも空を飛ぶことができるのだ。
 パイロット免許への夢を温めながら、さらにパロアルトの繁華街を無目的に走っていると、前から見物したかったスタンフォード大学の大聖堂が見えた。キャンパスの広い芝生では半裸の女性二人がひなたぼっこをしている。ちょうど正午に聖堂に着くと、聖堂からパイプオルガンの調べが流れてきた。中には入れないが、ドアのガラス部分から三十分くらいのぞきこみ、聞き惚れた。中はステンドグラスとキリストの絵模様が美しい。幼稚園と小学生くらいの二人の娘をつれた母親が来て、いっしょにドアの前で音楽を観賞する。あどけないお嬢さんが「ビューティフル」を繰り返しドアから離れようとしない。この母子と心をひとつにして優雅なひとときを過ごした。
 エルカミーノ・リアル経由で帰る途中、ジュース店を発見した。ジャンバ・ジュース(Jamba Juice)という生ジュースのチェーン店だ。一杯三ドル前後だった。
「オレンジ アンド バナナ プリーズ」
 と注文する。
 オレンジとバナナのミックスジュースは最高の味だった。なんだかウイスキーかブランデーがたっぷり入っているかのような蠱惑的な味がする。カップのサイズは超特大である。ご婦人の胸でいえばDカップといったところ。構内の無人新聞スタンドで二十五セント出してサンフランシスコ・エギザミナーを買い、これに読みふけりつつ、三十分かかってパウンドケーキといっしょにちゅうちゅうと飲み干す。


 十六日目(七月四日・土曜日) きょう、アメリカ合衆国は独立記念日でお祭り気分一色となる。午前六時、空が静かに白々と明け始めた。アメリカの誕生日には、アメリカ人はだれもが祭りと花火を楽しむ。アメリカ人はみな二つの誕生日を持つのだ。
 アメリカで音楽CDを買ったら、一度はパソコンのCD−ROMドライブに入れてみるといい。透き通るような金髪が美しいMindyのアルバム「IF I DON'T STAY THE NIGHT」をノートパソコンに入れると、いきなり画面が開く。[MEET MINDY]の文字列をクリックすると彼女のスナップショットが現われた。そしてリズミカルな音楽がコンピューターから流れてくる。
 午前十時半、書店でタイタニックのカラー写真集を発見し、我を忘れて読みふける。離れられない男女が冷たい海で漂流して死別するしかない運命にあるのを思い、心がびしょびしょになった。
 その悲しみをひきずったまま入った近くのオルゴール店では、オルゴールの音色一つに心を揺り動かされるのをお年寄りの女性店主に見透かされ、
「a lot of goodbyes ?」(別れをたくさん経験したんでしょう?)
 と声を掛けられてしまった。
 なんとかアメリカの誕生日を楽しみたいと、アメリカでも一、二を争う規模の花火の打ち上げ場所となるフィッシャーマンズワーフを目指してクルマではるばるサンフランシスコを訪れた。来てはみたものの、フィッシャーマンズワーフの近辺は祭りの交通規制で動きがとれない。あきらめてシリコンバレーという田舎町へと引き返すことにした。
 午後九時、アメリカの独立を祝う花火が上がり始めた。パーンといういい音がホテルにいても聞こえる。九時四十三分、ぱらぱらと音がした。花火が佳境に入ったらしい。ちょうどこのころ、サンノゼの近くで彼女にふられた男が頭に来て祭りの群衆の中で銃を乱射、何人かが撃たれたりパニックになったりで負傷した。独立記念もいいことだけではないみたいだ。
 ついにアメリカが日常になった。アメリカ人と同じように、毎朝部屋を出て車でサンノゼへ行き、同じ顔と数時間を過ごし、同じところで昼飯を食べ、時間が来ると自炊の食材を買いに同じスーパーに寄り、アメリカ人と同じように大きな買い物カートを押して店内を一巡し、顔なじみになった女店員の前に肉や缶詰やビールを差し出し、クレジットカードで精算する。自分の部屋に帰り、窓の外の英語のおしゃべりや口論を耳にしながら夕食をとる。そんなことを繰り返していると、自分が外国人であって、外国のアメリカで何を目的に何をしようとしているのかをすっかり忘れ、ただカリフォルニアの空気の中に溶けこんでゆく。そんなふうになってくる。音楽に聴き惚れれば、もうどうにでもなれって感じになっていく。


 ▼「彼女を満たしてほしい」と頼むとガソリンが

 十七日目(七月五日・日曜日) 奥歯の歯ぐきが痛み、朝五時半に目が覚める。右のリンパ腺が少し腫れてきた。午前六時十一分、妻に電話をする。
「歯が痛い、どうしたものだろう」
 と聞くと、
「なら歯医者へ行ったら?」
 と言われる。
 だが診療費が十万円以上だと聞いたことがある。行きにくい。
「じゃぁ化膿止めは?」
 と妻から勧められる。うむ。あとでファーマシーへ行こう。
 新聞をインターネットで見たら、北朝鮮の金正日が第六六六区で選挙に出るのだという。おそれいいる。ほんと。六六六といえば、キリスト教国では悪魔の軍勢の人数を意味するんだぞ。
 それで思い出したが、サンタクララ郡の、とあるレストランの女店主から
「うちの電話番号、六が三つ重なってるのよね。わたしって悪魔の軍勢のひとりなんだわ」とうち明けられたのを思い出した。

 パロアルトでギャスステーションに立ち寄る。
「水がエンジンから垂れているので心配だ」
 とたずねると、
「それはエアコンのせいだ」
 と言われ、安心する。
 ここの従業員はブロンドだが、見かけだけでは男か女か計り知れない。声を聞くとどうやら男らしいのだが。アメリカにはこういう不可解な人が多い。
 ところで満タンにしてくれというのを英語で言うと
「fill her up」
 という。
「彼女を満たしてほしい」
 という意味だ。
 英語でクルマは女として扱われる。ただしアメリカ人は「フィル・ハー・アップ」とはだれも言わず「フィラーップ」と発音していた。
 フルサービスでPlus(レギュラーとハイオクの中間)を入れてもらったら十・六二八ガロンで二十二ドル八十四セントもとられた。セルフサービスなら十八ドル程度のはずだ。セルフサービスのほうがはるかに安い。当たり前だけど、それにしても差がありすぎ。アメリカの人件費の高さは聞きしにまさる。ギャスステーションの近くの無人新聞スタンドでサンノゼ・マーキュリー紙を買うが、日曜版なので分厚くて高い。一ドル五十セント。つまり二十五セント玉を六個だ。
 七月三日ごろからやけにパトカーが目立つ。先日の銃乱射事件や強盗事件のせいもあるのかも。道路脇では、交通法違反でドライバーがどんどん捕まっている。公共駐車場では無法長期駐車の車がパトカーに監視されながらレッカー車で運び出されていた。

 援軍が来た。思いがけないことに、夜八時十分すぎニューヨークにいるはずのジャーナリストのミスター・カクマから電話が入ったのである。ニューヨークからロサンゼルスへ飛行機で飛び、ロサンゼルスでレンタカーを借りて、いまサンノゼに近いところまで来ているらしい。
 ミスター・カクマは
「一週間、カリフォルニアに滞在することになった。携帯電話は1-909-260-XXXX。これから十二時間ほど滞在するモーテルの電話番号は1-408-424-XXXX」
 と一方的にまくしたてる。
 なんだシリコンバレーの南端じゃないか。相変わらず機関銃のように言葉を連発するミスター・カクマであった。
 女性ジャーナリストのマミさんもいっしょ。電話に出て元気そう。携帯電話で連絡を取り合うことになった。用件は、というと、このへんの大学で医療関係の取材を一、二の学者にするためだという。


 ▼同じ行き先の車を追跡したら目的地に着いた

 十八日目(七月六日・月曜日) リチャードから実話としてのタイタニックの遭難事故を教わる。リチャードは海軍出身なので、海事の話題になると話が尽きない。リチャードは突然、元気を出してこう言った。
「氷山に突っこむときはフネの横腹を見せず、正面から突っこめ」
 ぼくも全長三十フィートの外洋ヨットの艇長をしていたことがあったので、舳先の剛性、横腹の脆弱性は知っている。賛成だ。
 海事をクルマのドライブに置き換えると、
「路上に障害物を発見したら、ハンドルを切らず、正面から突っこめ」
 ということになる。たぶんシートベルトは縮み、エアバッグは膨れてあなたを守ることだろう。
 一方、ゴーシャ先生はデボラ・カーが演じる映画「王様と私」の雰囲気できょうも授業を進める。われわれピューピルはおのおのの週末の感想を述べるのであった。
 放課後、ホテルからミスター・カクマの携帯電話に連絡を入れると、すでにギルロイ方面から北上してシリコンバレーを横目に通過し、サンフランシスコを訪れ、再び南下している最中だという。
 間もなく彼らはデパートのJCペニーの正面玄関にキャデラックでさっそうと到着した。車の前でマミさんが上下ともぴっちりしたNYファッションで立っていた。ミスター・カクマも少年のようないでたち。
「こんなところで再会できるなんて」
 と、まず握手。
 三人でキャデラックに乗って宅急便のフェデックス(フェデラル・エクスプレス)へ。ところがニューヨークにはごろごろあるフェデックスが、シリコンバレーでは三十分探しても見つからない。全員いらいらしていたら、マミさんがフリーウエーで
「あっ、あそこにフェデックスのトラックが走っているよ。あれを追いかけましょうよ」
 と、すっとんきょうな声を挙げた。
「ほんと? 戸別配達じゃないの?」
 なんてことをつぶやきながらもフェデックスのトラックを追跡したら、これが大成功。かんたんにフェデックス事務所にたどりつき、国際情報誌に掲載するためのカラー写真などを東京の出版社へ発送することに成功した。
 この
「自分と同じ行き先のクルマを追跡すると目的地に着ける」
 というテクニックは、後日おおいに役立った。
 つまり、
「あ、あの乗用車はダウンタウンのジャンクションで降りそうだ」
 と直感がひらめいたら、その乗用車の後ろに付き、同じ走行レーンを走ればよいのだ。このテクニックは百発百中の精度を発揮した。
 二人のジャーナリストは、北はサンフランシスコやシアトル、南はロサンゼルス、そしてシリコンバレーと突貫取材。記事は日本の国際情報誌に近く掲載されるとかで、ぼくのノートパソコンやホテルのファックス、フェデックスの国際宅急便オフィスを利用して盛んに東京へ原稿と写真を送り続けた。深夜に原稿を書いたと思ったら早朝サンノゼ空港からシアトルへ飛んだり、キャデラックの中から携帯電話で学者とアポをとったりで、授業の合間を見て付き合ってこれを見ていたら取材手法の勉強になった。
 戦争のような仕事を終えたわれわれ三人は、サンタクララのエルカミーノ・リアル沿いにある有名なシーフードレストランの「フィッシュマーケット」で食事をする。生カキとロブスター、ビールとワインなどをいただいて三人で百三十五ドル。とっても居心地が良く、ウエイトレスも感じが良く、気に入った。
 ぼくのマシンが世界中の情報網につながっているのを見たお二人は、うらやましくなったのか、急に
「パソコンを買う」
 と言い始め、サニーベールのT・ZONEへ行くことになった。ここで東芝のノートパソコンを選んだ。付属品や日本語版の基本ソフトも含めて千八百ドル。そんなこんなでノートパソコンのセットアップや東京の出版社に送る原稿の手伝いをして、結局は深夜まで大騒ぎ。


 十九日目(七月七日・火曜日) ぼくらの先生が立ち往生した。朝、学校へ行くと、クラスメートの皆さんは校内のロビーで立っていた。久しぶりに会う女性校長に聞くと
「ゴーシャが高速道路で自動車のトラブルに見舞われた」(Gosia got troubole with her car.)
 ということだった。エンストらしい。
 このころ偶然、新潟の妻も朝の通勤途中でエンストによる立ち往生を経験していた。こうした奇妙な現象を繰り返し経験する人は少なくない。このため「偶然と必然」とか「シンクロニシティ」(共時性)といったタイトルの書物がたくさん著されているので、興味があったらひも解いてみるといい。
 ひまなので、ヤングといっしょに海岸保養地のサンタクルーズに行くことにした。
 誘うと、
「姪っ子の一〇歳のスーと一緒でもいい?」
 というので、OKと答えて学校で待ち合わせをした。
 時間ができたので郵便小包を出しに行く。航空便だと二十キログラムの段ボール箱が百二十七ドル。日本到着には五日から七日かかる。船便だと六週間後から八週間後の到着で五十二ドル。文句なしに船便にする。実際は三週間足らずで無事に日本に届いていた。
 さてカムリでヤングとスーと、いざサンタクルーズへ。山道が多い。きつい曲がりくねった道を安全第一とばかりにゆっくり走ったが、二人にばかにされているかなぁと危惧していたら、ヤングがぽつり一言、
「ここは難しい道なのよね」
 で助かった。
 さらにのんびりドライブ。スーはすーすー寝息を立てて後部座席でお休み。この女の子は、まるでネイティブスピーカーのような発音をする。
 かぶと虫(beetle)みたいな真っ赤なかわいいクルマが左前方を走っていた。
「あっ、ニューワーゲンだ」
 と思わず叫んでしまった。
 それは旧ビートルと似て非なるもの。ボデーは昔と同じくかぶと虫のかっこうをしているが、デザインの流麗さが違う。後日知ったところでは、新発売以来、アメリカ人の間で「かわいい」として静かな人気を呼んでいるという。今度のワーゲンは空冷ではなく、水冷で、パワーがあるようだ。後にショッピングセンターで展示されているのを見たが、車内空間は小さいものの、一人か二人でドライブするには十分だと思った。
 キャデラックやパークアベニューなどのでかいアメ車を好きなアメリカ人は、なぜか知らないが、若い男性か、あるいは黒人男女が多かった。所得レベルが中の上のクラスの白人たちは、日本でいう二リッターカークラスに好んで乗っていた。少しお金があるとドイツのアウディかBMW、もっとお金があるとフルサイズのベンツだ。
 そしてアメリカ人はせっかちが多いので、家具類をショッピングセンターで買い込むと配達日を待っていられず、自分のクルマで即日持ち帰るため、乗用車のほかにピックアップ(荷台がオープンなトラック)も持っている家庭が多い。

 シリコンバレーから一時間近くかかってサンタクルーズに到着した。ヨットハーバーでジュースを飲みながら三人でのんびりする。帰りは助手席のヤングとすっかり打ち解け、プライベートなことを話し合っても違和感がなくなっていた。いうまでもないが、日韓米の関係はわが極東では枢軸といっていいほどのカナメではある。ぼくはそのことを在米韓国人たちに、ことあるごとに強調してきた。


 二十日目(七月八日・水曜日) パソコンショップへいざ突撃。ジャーナリストのマミさんとカムリでFry'sサニーベール店に行き、電話回線のメス・オスのコネクターや印刷用紙を手に入れた。
 店員に、必要としているコネクターを説明するとき、
「female-male, not male-male」
 などと英語でしゃべっていたら、同行のマミさんが
「うっそー!」
 と笑い転げるではないか。
「それって日本語のメス・オスの直訳英語じゃないの」
 というのだ。
 信じられないかもしれないが、これでいいのだ。現に店員は合点してメス・オスのコネクターを手にしているではないか。ニューヨークに住み着いて英語がじょうずになりすぎるのも考えものだ。
 Fry'sの駐車場をクルマで出ようとしたら、どこかで見たことのあるようなラテン系の女性がいた。なんとグロリアだ。
「なんでここにいるの?」
 聞けばバスで、はるばるショッピングに来たのだという。
 これもシンクロニシティ(共時性)の一種だ。テレパシーで連絡を取り合って同じ時刻に同じところへ買い物に来たわけでは決してないのだ……。
 彼女を後部座席に乗せ、一時間も迂回して自宅まで送る。
 ホテルではプリンターを接続してミスター・カクマの原稿の印刷に成功した。これをフロントデスクのファックスマシンで東京の出版社へ送信する。フロントの白人男性のジャスミンが四苦八苦しているので日本人のわれわれがフロントの中に入って格闘、送信に成功する。混乱のためファックス料金の支払いを忘れた。お茶のような名前のナイスガイも請求を忘れた。
 この後、近所に食事に出るが、午後九時五十分とあって中華料理店は全滅、イタリア料理店だけが、かろうじて開いていた。赤ワインやビールを三人で飲み放題だったが、支払いは四十ドルにすぎなかった。
 ところが
「赤ワインの勘定を付け忘れた」
 と従業員が戸外まで追いかけてきて、結局六十ドルだった。三人の中のだれかがテレパシーでファックスやワインの支払いを忘れさせようとしているのだろうか。
 このときちょうど深夜十一時。レストランの係の男性は、デート相手の女の子を表に待たせてわれわれが最後に出るのを待っていた。とて申し訳なく思い、感謝する。過労で疲れた一同だが、すっかりビールと赤ワインでご機嫌だ。


 ▼全米旅行に備え大型の全米地図を買う

 二十一日目(七月九日・木曜日) 援軍が去り、またひとりぽっちになった。昼休み、学校からホテルに電話すると、ジャーナリストの二人は正午にチェックアウトしたとのこと。ニューヨークへ帰ったのだ。どっと寂しさがこみ上げる。
 午後、新手の援軍が現れた。授業を受けていると、アツコとアヤコの二人がいきなり教室のドアを開いて
「堤さーん」
 と日本語で声をかけてきた。
 これには教室を取り仕切る先生もぼくも口をあんぐり。昼休み、ベランダでアヤコに軽い気持ちで声をかけたドライブ話に乗りたいというのだ。授業が終わるまでロビーで待っていればいいではないか。
 アメリカ横断が近づいてきたので大型の全米地図を買う。全米旅行に備えてバンク・オブ・アメリカの預金口座にもう五百ドル入れておこう。


 二十二日目(七月十日・金曜日) アツコとアヤコと三人で学校の隣の日本食レストラン「リンガーハット」で昼食をとる。冷やしラーメンがすごくおいしい。今回の旅で日本人と食事をするのは初めてだ。日本人と交際していると英語が上達しないというのが主な理由だが、どのみち周りに日本人がいなかったせいもある。

 今回の旅に限らず、ぼくはどの国に行っても日本人に全くといっていいほど会うことがない。
 アトランタのアメリカ人に
「この土地に日本人やアジア人はひとりもいないのですか?」
 と聞いたところ、
「たくさんいるのだが、あなたが来たので隠れたのではないか」
 と、けったいなことを言われたこともあった。

海外で日本人に会いたくないという日本人旅行者は多い。
照れて英語も話せなくなる、自画像を見たくない、気まずい、
日本人が周囲にいたのでは外国の風情が台無しになる……
などと理由はさまざまだろうと思う。
海外で日本人に会わない方法などという気の利いたノウハウはないが、
一つだけ言えることは、
自分ひとりで訪問場所やスケジュールや移動手段を決めて動きさえすれば、
ふしぎなほど日本人に会わずに済む。
日本人ならだれでも知っている有名観光地を訪れたときでさえ、
自分の判断で動いてさえいれば、
皆無といっていいほど日本人に会うことがない。
ただし自由気ままは高くつく。
予約なしで文字通り飛び乗る飛行機のチケット代の高さは旅人ぞ知る。
当日の夕方、飛びこみで入るホテルも同様に二倍近い宿泊料となる。
なので、上手に自由気ままを楽しむには、ある程度は計画性が必要だ、
ということに落ち着く。

 とこで、アツコは才気煥発、にぎやかな一八歳である。この春、父親がハイテク関係の有名企業の仕事でこっちに赴任してきたので付いてきた。自転車でクパチーノの自宅から二十分かかって学校に通っている。ぼくはこの子の風貌から「トッポジージョ」というニックネームを捧げた。
 アヤコはもの静かな二〇歳。勉強熱心で、短大で中学校教諭一級を取得して春に卒業したばかり。色の白さは白人に負けない。ぼくと同じ六月下旬に、ここアメリカに来た。学校から紹介してもらった近くの家に月五百ドルでホームステイ中。歩いて通っている。まだ寄宿先と学校の往復以外、どこも見たことがないという。耳当てをして両手のシャモジで飛行機を誘導するあの華やかな職業に就くのが願いだ。。
 アツコとアヤコはなかなか英会話が巧くならないで困っている。日本人同士でべったり一緒だと日本語でしゃべってしまうのでそれも当たり前なのだが、二人はあまりに仲がよく、しかもお互いに無いものを持っているという関係のため、どうしても離れられないでいる。
 ラーメンを食べながら相談した結果、この週末、三人でサンフランシスコへドライブをすることになった。


 ▼レストルームで事件発生

 二十三日目(七月十一日・土曜日) 週末の朝が来た。午前九時半、トッポジージョから
「迎えに来て」
 と電話が入った。
 学校でまずアヤコを乗せ、次にトッポジージョとの待ち合わせ場所へ。そこにはトッポジージョのお父さんもいた。
 父親に
「かたときも娘さんから離れないようにしますからご安心を」
 と約束してから、さっそうとサンフランシスコへ。
 ルート280に乗ってサンフランシスコに到着したところまではよかったが、やっぱり週末だけあって金門橋へのアクセス道路が超混雑している。しかたなく右折してカリフォルニア通りへ。助手席でナビゲーターをさせられて地図をひざに乗せているアヤコは、後部座席のトッポジージョのほうを振り返り、
「ねぇ、あの家かわいいね」
 などと、あわよくばこのへんの一軒家に住もうか、なんてことを話し合っている。
 たどり着いたきょうの金門橋の展望台は、もやが全然ない。はるか先まで見える。すばらしい眺めだ。ことのほか空気が澄み切っていて、湾内に浮かぶアルカトラズ島もくっきりと見える。昔、あのアルカトラズ島にあった刑務所でカポネがとらわれの身になっていたのだ。週末とあって金門橋を歩いたり走ったりして渡る人も多い。ところが駐車場難のため、運転者のぼくだけ車から出ることができず、単なる観光案内人兼運転手に地位が転落してしまう。
 帰りに事件が起きた。ジャパンタウンの近くのスーパーでレストルームに入ろうとしたのだが、このとき変な白人男が来て、閉まりかかったトイレのドアをこじ開けて押し入ろうというハプニングが起きた。ぼくは真っ青になったが、幸い廊下に通りかかった背の高い黒人男性が変な男を引っ張り出してくれて助かる。この男は次に隣の女性用トイレにいたトッポジージョのドアをごんごんやり、中でおしりをまくりかかっていたトッポジージョは焦りまくったという話だ。強盗や痴漢にしては変なので、きっとおしっこ地獄で漏らしそうになって強引に押し入ったのではないかというのがわれわれの推理だ。
 西へ行くとそこはすばらしい展望、なんと大海原が広がっていたのだ。砂浜へ行くとそこは時を忘れて何時間でものんびりしたくなる桃源郷。砂浜は幅広く、どこまでも広がり、遠くに奇岩が二つ。
 帰り、サンマテオを目指すと、ばっちりルート280に出た。280は101よりも格段に景色がいい。
 夕方、シリコンバレーに到着するが、まだ明るいのでサンノゼ国際空港を見物する。空港付近の交差点で信号が黄色になったので、停車するか、それとも通過するか迷ってしまい、交差点の中で停止、あわててバックしたら、信号待ちの皆さんから大笑いされる。中でも、でかいアメ車に乗って信号待ちをしていた白人の若い女二人は、通り過ぎながらこっちに顔を向けていつまでも笑い転げていた。笑いの的となったぼくもつられて笑ってしまい、にっこりみなさんに投げキッス。
 ところでアメリカでは四月から十月にかけて夏時間を採用しており、時計を一時間進める。夏時間はイギリスではsummer timeと言うが、アメリカではdaylight saving time(日光活用時間)と言い、文字通り夜を明るく過ごすことができる。午後八時でも真っ昼間みたいだ。これは夜間活動に至極便利であり、退社(下校)後、スポーツに趣味に長く活動できるんで助かった。消費が増えるというので政府要人も景気浮揚によろしいと考えているらしい。ぼくを笑いの材料にしたあのばか女たちもボーイハントの真っ最中だったのかもしらん。

アメリカの大半の州は四月第一日曜日から十月第四日曜日まで
夏時間(Daylight Saving Time)に移行する。
夏時間の期間中、全米の四つの時間帯と日本との時差は
それぞれ次のようになる。
◇Eastern Time(ET)・・・十三時間
◇Central Time(CT)・・・十四時間
◇Mountain Time(MT)・・・十五時間
◇Pacific Time(PT)・・・十六時間

※Eastern Timeはニューヨーク、ワシントンDC、マイアミ、デトロイト、
アトランタなど。
※Central Timeはシカゴ、ダラス、ヒューストン、セントルイスなど。
※Mountain Timeはソルトレイクシティ、フェニックス、デンバー、
アルバカーキなど。
※Pacific Timeはサンフランシスコ、シリコンバレー、ロサンゼルス、
シアトルなど。
※アリゾナ州、ハワイ州、インディアナ州の一部は夏時間を採用していない。


 ▼難航する大陸横断プラン

 二十四日目(七月十二日・日曜日) 企画立案に胸を躍らせる一日がきた。朝食後、ベッドの上に地図を広げてアメリカ横断旅行のプランを練る。しかし、なかなかイメージがわいてこない。
 アメリカ横断ドライブに挑戦しようとしているぼくに対して、誰もが
「危険だ」
 と心配するので、恐怖がどんどん蓄積していく感じもする。
 学校でリチャード先生とアメリカ横断ドライブの話をしたら、彼はシカゴ・ロサンゼルス間のルート66の完走が余生の夢だとかで、アメリカ人の間でも大陸横断は人気の的なのだ。そのリチャードはサンノゼ紙の天気予報欄を広げ、各地の気温・湿度を指摘しながら
「ヒューストンへこれからドライブすることは、最も暑いシーズンに最も暑い場所へ行く(クレイジーな)行為だ」
 と聞かされ、なるほどと思った。
 そして
「ヒッチハイカーを決して拾わない」
「ドアをロックして車内から出ない」
「ハーツでセルフォーン(携帯電話)を借りて不慮の事態に備える」
 の三箇条の金言をたまわった。
 結局、暑かったが死ななかったし、ヒッチハイカーはひとりも見なかったし、ドアをロックしなかったし、車の中からしょっちゅう出ていたし、携帯電話を借りるのを忘れたし、というわけで、それでも生きて帰ってきた。
 アヤコにいたっては
「クルマのガラス窓ごしに銃でズドンと撃たれる」
「クルマから一歩外に出ればさらわれる」
「街を歩けば迷子になる」
 などとぶっそうなことを言う。
 これを聞いていたトッポジージョは
「これから行こうとしている人を脅すんじゃないわよ」
 とアヤコを諫めるのだが、脅す意図はなかったとしても、こちらとしては怖い話に変わりはない。
 日系アメリカ人のひとりは
「ドア・ツー・ドアが安全です」
 と教えてくれた。
 ドア・ツー・ドアとは、たとえばレストランに入るとき、
「そのレストランの駐車場にクルマを入れ、その駐車場の敷地だけを通ってレストランのドアを開き、食事が終わったらレストランのドアからクルマのドアへ直行して帰りなさい」
 というアドバイスである。
 これもあまり守らなかった。せっかくの旅なのに、レストランの駐車場だけしか歩けないなんてばかばかしいと思ったからだ。
 迷いもあった。重い荷物をトランクから降ろして広い飛行場を持ち歩くのは、考えれば考えるほどつまらない話だ。乗り換えがめんどうな飛行機に乗るのをやめて、いっそ全米をすべてレンタカーで走り抜こうかとも考えた。
 そして運転しているだけの毎日に、果たして楽しみが見い出せるだろうかという疑問も湧いた。人並みにラスベガスやグランドキャニオンに寄って観光しようかとも考えた。しかしスケジュールの変更を検討し始めただけで恐怖が走る。
 経費も見当がつかない。二千マイルも走ってからレンタカーを乗り捨てると、いったいどれくらいの乗り捨て料金が加算されるのだろう。それにホテル代は?
 ホテル代を節約しようとキャンピングカーも検討したが、一週間借りるだけでレンタル料金が二千ドルだということなので、これは高すぎた。それにキャンプ地だけならともかく、都市部の駐車場にキャンピングカーを止めて寝泊まりするのは危険だと感じた。
 しまいには最初の予定通りにアメリカ横断を決行することすら恐ろしく感じられ始めてきた。
 考え疲れて昼飯に。タウンセンターのモール二階にある「江戸」というお店で焼きウドンとミソ汁(ミソスープ)。おいしい。ビーフとシュリンプもたっぷり。日本人にはちょうどいい。うどんが五ドル、みそ汁が一・七五ドル。体が温まったら、少し気持ちが落ち着いてきた。
 今度はラッキーのはしご。ここでビタミンB2複合剤を買う。八ドル近くする。アメリカ人はビタミン剤がとても好きだ。棚にずらりと陳列されている。うれしいことに、ラッキーの入り口近くに中古住宅やレンタルルーム、中古車などの無料冊子がたくさん置いてあるのを発見した。ありったけ一部ずつもらっちゃう。
 ホテルの部屋の窓際で中古住宅と中古車の情報誌を広げていると、プール付きの一戸建て住宅に住み、ムスタングでガールハントをする毎日を夢想してしまうからふしぎだ。そして安息感でいっぱいになる。
 それにしても、こっちに住んでいると英語の情報を読んでいても外国語だという気がしない。スーパーでも日本と気分は変わらないし、肌の色の違う人種と話をしても違和感がない。右側通行、左ハンドルの運転もリラックスしているし。かんたんな会話なら談笑しながら電話で話すこともできるようになった。でも、慣れると同時に飽きてきた。もっともっと刺激がほしい。


 二十五日目(七月十三日・月曜日) 大陸横断の計画がまだ定まらない。経費についての不安も消えない。ここまで来て、コース変更ならともかく、中止は意地が許さない。ダラスでクルマを借りてワシントンDCで乗り捨てると、乗り捨て料金はどれくらいかかるのだろう。とにかく聞いてみることにした。そこでハーツのフリーダイヤルに電話してみたら、日本人の英語を辛抱強く聞いてくれる女性が電話に出た。しかし要領を得ない。「乗り捨てる」というのは英語でなんというんだろう。
 どんでん返しが待っていた。アメリカン航空に電話したところ、切符のボトム(下端)を見てチケットナンバーを教えろという。001で始まる番号を棒読みすると、なんとその切符ではアメリカ国内のフライトのキャンセルは不可能だという。もし乗らなかったら、日本への帰りの切符は新しく買い直さなければならんらしい。最悪の場合は、乗らなかったら日米往復航空券の正規料金(数千ドル!)の請求書が舞い込みかねない怖さを思わせた。ぼくが購入した切符は、成田からアメリカを回って成田へ帰るまで通しの切符だったんだ。あぶあぶ。
「ok, ok, I'll take it」
 とごまかし、予定通り飛行機に乗ってダラスまでいくことにした。このとき、ほっとした。アメリカン航空とハーツという大船に乗ったような安心感に浸れたのである。
 したがって予定通り七月二十日の朝にサンノゼからダラスへ飛び、アメリカ横断ドライブを決行することになった。
 ついでに
「ワシントンDCの空港はどちらに行けばいいの?」
 と聞くと、二つある空港のうちナショナル空港からの出発だという。間違って別の空港に行って乗り遅れることのないように気をつけねば。
 問題はレンタカー。再びハーツ社のフリーダイヤルを回したら今度は男性が出た。彼は
「ジャパニーズに代わりましょうか」
 というので、ありがたくその恩恵にあずかることに。
 しかし電話に出たその日本人女性に
「カリフォルニア州時間であすの午前五時以降に担当の人が出るので、そのとき電話していただけますか?」
 と要請された。日本語通訳のサービスもするという。きょうのところは、とりあえずここまでにする。


 二十六日目(七月十四日・火曜日) アメリカ横断計画が固まりつつある。午前五時四十五分に起床、眠気を覚ましてからハーツに電話する。日本語同時通訳を介してハーツの女性社員と話したら、やっと要領を得た。何千マイル走ってレンタカーを乗り捨てても、一セントも乗り捨て料はかからないのだ。やっとほっとした。これで安心して次の旅へとコマを進めることができる。
 今回の旅は自由が極めて多い。この自由こそがぼくの求めていたものだったのだが、しかし自由こそが最も危険の多いものだったのだ。知らずにアメリカの常識から外れたことを計画すると、待ったましたとばかりにデインジャラスな落とし穴が現われる。安全に計画を進めるにはどうしたらよいか。アメリカの常識と非常識、それこそが問題だ。常識を守らないと危ないが、かといって安全第一ではカリフォルニアから一歩も足を踏み出せない。
 サニーベールに来て二十六日もたつのに、ホテル真向かいにKADOYAというジャパニーズ・レストランがあるのを知らなかった。ここで夕方から食事をする。日本酒は二合ビンで五・五ドル。小さいビールが二ドル。看板娘は白人とのハーフっぽいノリコという学生アルバイト。彼女はワシントン州に七ヵ月間、シリコンバレーに一年間住んでいるという学生さん。
 珍妙なことに、緑茶、ビール、ポテトサラダ、日本酒、みそ汁、枝豆、サケとマグロとタコの刺身、それにご飯の順番で出てくる。しかしお酒がまずくなるので、ご飯だけは遠慮する。
 ノリコさんはパーフェクトな敬語の日本語を話す。ここアメリカでは新鮮な響きがする。ノリコさんはカウンター越しにぼくにビールをつぎながら
「日本人が、なぜグリーンカードを欲しがるかといいますと……」
 とレクチュアし始めた。
「日本語ができてグリーンカードがあれば、キーボードのタッチができるだけでオフィスの仕事がすぐ手に入るのよ。このウエートレスの仕事は責任がなくていいんだけれどね」
 そういえば、サンフランシスコのジャパンタウンにある寿司店で、アルバイトの女の子が
「堤さーん、グリーンカードちょうだい」
 と、店から表の道路まで出てきてぼくを追いかけたっけ。
 カウンターでノリコさんは話を続ける。
「グリーンカードのてっとり早い取り方があるとすれば、それはまずアメリカ人と結婚することね。あと、弁護士を百万円くらいで雇うと有利にしてくれるというウワサを聞いたことがあるけど、それは少しマユツバもの。お金を政府に寄付するのも有利に働くらしいわよ」
 さらに、
「グリーンカードがなく、ノービザでたびたびアメリカに来すぎると、麻薬の密売人などと間違われてノーと言われることがあるの。だから、たびたび来るようならビザをとったほうがいいわ」
 ということだ。ぼくは帰国後、さっそくIビザというジャーナリスト向けのビザを在日アメリカ大使館に申請し、取得した。
 ぼくはノリコさんに
「もっとグリーンカードのことが知りたい、もっと知り合いをつくりたい」
 と言うと、グリーンカードを所有している友人の電話番号を教えてくれた。その人の名はスーという。
 これを聞いていたママさんが、調理の手を休めて近くの「道草」というジャパニーズレストランや、その規模全米一というカラオケスナックを紹介してくれた。ライバルに客を紹介? それもそのはず、近く店を閉じるのだという。
 お店で伊藤ハムの若い現地駐在員と、六一歳のリタイアした日系銀行マンと知り合いになる。みんなで楽しく談笑。このママさんを含む三姉妹は、シリコンバレーでそれぞれ日本食レストランを経営していて有名らしい。
 こっちの人は、日本酒を他の人におしゃくするとき、相手のおちょこを自分でもっておしゃくをする。つまり右手におちょうし、左手に客のおちょこというスタイルだ。おかしくてひとり笑ってしまった。しかしビールの注ぎかたは日本と同じだった。


 二十七日目(七月十五日・水曜日) 自分の不注意を自分にののしるはめになった。今朝、ホテル裏手の駐車場で自分のクルマを見て驚いた。運転席と助手席のガラス窓が開いたままになっていたのだ。一眼レフや新品のデジタルビデオカメラを座席に置いてあったので、なにか盗まれたかと思ってギョッとした。きのう暑かったので、ウインドウを開いておいたのをうっかり閉じずに部屋へ戻ってしまったのだ。一瞬の心配は杞憂に終わり、すべて無事だった。
 夕方近く、ミドルフィールドを通ったので、インターネットの閲覧ソフトのメーカーとして有名なネットスケープ・コミュニケーションズ社のメインロビーに広報担当者を訪ねておじゃまする。
 正面受付では、プラチナブロンドの女性が親切に接してくれた。彼女の名刺を見ると、なんとジェニー・アーデン(Jennie Ahdan)という名前で、映画「スターマン」でカレン・アレン扮するジェニー・ヘイデンとそっくりだった。そもそも、ぼくがアメリカをクルマで横断したくなったのは、この映画を一九八七年に見て以来だったのだ。
 この映画は、遠い星から地球の人類を表敬訪問しに来た空飛ぶ円盤が侵略者と間違われ、アメリカ空軍に撃墜されるところから物語が始まる。空飛ぶ円盤に搭乗していた異星人のパイロットは、青く光る物体となって湖畔のジェニーの家に迷いこむ。ジェニーは夫のスコットを亡くしたばかりの未亡人で、その夜、ジェニーは、八ミリフィルムや写真を見てはスコットを懐かしんでいた。
 異星人は、机にあったアルバムに貼られているスコットの写真と毛髪を元に、スコットそっくりの人間に再生する。このスコットをハンサムな異色俳優のジェフ・ブリッジスが演じた。
 ジェニーは、夫そっくりの異星人に戸惑いながらも、二人でアメ車を駆ってアメリカを走り抜けるのだが、その途中、モーテルやハイウエー、ネバダ州のラスベガスやアリゾナ州のウインスローを舞台に、愛と奇跡のドラマが繰り広げられる。
 これはとても心温まるすばらしいストーリーだったので、それでぼくはアメリカドライブにあこがれたのだ。
 ぼくが生まれて初めてこのカリフォルニアの地を踏んだのは、今から十年前の一九八八年五月五日だった。滞在中、風土にほれ、人にほれた。映画「スターマン」と同じく、ラスベガスからウインスローへと続く道を少しだけレンタカーで走ってみたりもした。
 アメリカに一週間滞在したのち、サンフランシスコ空港でユナイテッド航空の成田行きに搭乗した。ぼくはユナイテッド航空の機内に入ると左翼側の窓際で偉大なる太陽を左に見て、バーバラ・ストライサンドの歌「エバーグリーン」を子守歌に深い眠りに落ちた。ジャンボジェットは追い風に乗って猛スピードで飛んだ。成田に着陸して長い眠りから覚めたとき、ぼくは「アメリカの心」に変貌していた。それは三畳一間の下宿から、一気にゴージャスなスイートルームへと引っ越したかのような大変化だった。
 以来、ぼくの宗教心や価値観はすっかりアメリカ人のスタイルに変わり、日本人に囲まれて暮らす毎日は異教徒のそれ、異国人のそれになってしまった。考えるのは英語でよいとしても、人と話すときは日本語でしゃべらなくちゃいけない。会社へ行ったら人を抱いてあいさつしてはいけない。ほおにキスしてもいけない。投げキッスも握手もだめ。とにかく何もかも戸惑った。
 そんなふうに変わったぼくに付き合ってくれた妻の寿美は、きっとジェニー・ヘイデンと同じ心境だったに違いない。
 あの湾岸戦争で戦死した多国籍軍の空軍の英雄もスコットという名前だった。アメリカからテレビの衛星中継で放映された葬儀シーンで未亡人が涙をじっとこらえているのを見ていたら、ぼくの目にはアメリカ空軍パイロットの未亡人と映画冒頭のジェニー・ヘイデンが完全に重なり合って見えた。

 突然、ネットスケープ社のジェニーが声をかけてきた。
「とても暑いですわね。一〇〇度だわ」
 ぼくは白日夢からピクンと醒め、とっさに
「来週、テキサスのヒューストンに行くんです」
 とアメリカドライブの予定を話した。
 会話のつじつまは合い、ジェニーは
「Oh! almost 115!」
 と驚いてみせた。
 そんなことを話しながら待つこと五分、広報担当のフランス系アメリカ人の女性から応接セットの机上の電話が鳴り、
「忙しいので今は席を立てないの。電子メールで連絡を取り合いましょうか」
 という話になった。
 教えてもらったアドレスは*****@netscape.comだった。大会社ともなると、社員が持っているメールアドレスもかっこいい。しかも記憶しやすい。その人の名前と社名を覚えているだけでいい。


 二十八日目(七月十六日・木曜日) ノリコさんから紹介された日系アメリカ人のスーに学校から電話を入れる。夕方、サンノゼのヤオハンで待ち合わせる。すごくきれいでスリムな人。デニーズに入り、ぼくはチョコパフェ、彼女はコーヒー。横浜の人だが、アメリカで日系アメリカ人と結婚してグリーンカードを取得したという。国籍や移民の話が発展し、
「堤さん、アメリカにはとても貧乏な人たちがいるのよ。それをどう思ってらっしゃるの?」
 とスーは真摯な質問をぶつけてきた。
 これにぼくは
「はい上がればいいでしょう。リッチな人がリッチな生活水準を維持するのに必要なエネルギーと、プアな人がはい上がるために費やすエネルギーは大差ないはず」
 と述べるのだ。
 とはいえ、スラム街の一角で、ポンコツ乗用車の中に一家五人が暮らす生活実態を目撃するならば、底辺からはい上がるには並大抵のエネルギーでは追いつかないのだということを思い知らされていく。
 話は弾み、人類愛や仏教、キリスト教へ話題は広がるが、ぼくもノリコさんも二人ともたばこが吸いたくて、代わる代わる戸外へ。
 夜七時近くなった。とはいっても昼間同様明るいが、二人で紹介者が働いているレストランKADOYAへお食事に。次に近所のレストラン「道草」へ。おっかけKADOYAのママさんとノリコさん、そして常連の元銀行マンの三人連れも来てカウンターに座った。深夜十二時少し前まで談笑してスーを送る。


アメリカ人と深夜までお酒を飲み交わす機会が多かったが、
男性が女性と飲むときは
彼女を家に送り届けるまでエスコート役が続くと思わなければいけない。
深夜、女性をひとりタクシーに乗せて帰すというのは危険だし、
アメリカ人ならだれもそんな無謀なことはしない。


 二十九日目(七月十七日・金曜日) 最後の授業に臨む。これでアメリカの常識学は卒業したことになる。リチャード先生から卒業記念に全米地図をもらった。
 卒業に身も心も軽くなった正午少し前、スーが住むマンションを後学のために見学しようとサンタクララ市へ向かう。しかしわからず市の北部を堂々巡りし続けた。電話をしてもう一回道を聞くが、それでも目的の道路へ行けない。その道はホープ(希望)通りという。ぼくは自分の希望を見つけるためのアクセスのように思い、一時間半も道に迷ったのにあきらめがつかなかった。
 迷った末にたどり着いたセブンイレブンから電話をしたら、彼女はホンダの乗用車で迎えに来てくれた。彼女の後ろを追いかけてホープ通りを駆け抜け、彼女のマンションにたどり着く。
 この豪華マンションの駐車場は、車内からリモコンで電動スライドを開く方式になっていた。しずしずと開いた鉄扉へとぼくもカムリで後続する。正面玄関から中を見せてもらう。すごい。ロビーに運動室、そして四つの温水プール。居住者のほとんどは白人だ。花もたくさん飾られていて華やぎの雰囲気にあふれていた。これで月に二千ドル。ドル高なので、ざっと二十九万円の家賃である。ふと紹介者のノリコさんとの身の上と比べ、あまりにも落差のある生活レベルに複雑な思いがした。彼女と後日、その話をしたら、ノリコさんは
「いいのよ、これで満足なんだから」
 と言っていたが、少しさびしそうな表情もしていた。でもノリコさんには九月から大学でのキャンパス生活が待っている。どんなすばらしい男性が彼女の前に現われるのだろうか。
 午後六時半、ひとりでノリコさんが働くレストランKADOYAへ。常連さんたちとのたわいもない日本語の会話に夜はふけてた。
 しかし面白いのは、午後九時を過ぎて店内が常連だけになると
「それっ」
 とばかりに店内に灰皿が出され、
「いぇい!」
 とばかりにみなはしゃぎ出して一斉にたばこを吸う光景だ。無邪気で楽しいね。これはカリフォルニア州当局にはないしょだけど。なお、店のドアから一歩でも歩道に出たら、そこが店の軒先であろうとお酒を飲んではいけない。ビールでもだめ。灰皿があればたばこはいい。紳士淑女の土地カリフォルニア州の法律は、交通ルールを含めて非常に厳しいものがある。他の州ではここまで厳しくはなかった。


 三十日目(七月十八日・土曜日) ピンク色のドロドロしたアメリカ製の胃薬で二日酔いをごまかす。
 クルマでスティーブンス・クリークを走っていたら、ふとシアーズの隣にある書店、ステイシーズ(Stacey's)クパチーノ店に入りたくなった。「ステイシーズ」チェーンは、ライバルの「バーンズ・アンド・ノーブル」チェーンとの全米書店戦争に敗北したと言われているが、それでも品揃えは抜群だ。
 そこで
「コンピューター関連企業のリストはありますか?」
 と聞いたら、あっけなく見つかった。
 そしてコンピューター用語事典も発見した。
 どちらもCD−ROM付きで、分厚いのに安く、掘り出し物を見つけた気分になってほくほくする。
 書店で重さを計ってもらったら、この二冊で五ポンド(一ポンドは〇・四五キロ)の重さだった。これでは宅急便で日本に送りたくても、送料がいくらあっても足りない。フェデックスだと五キロの重量で新潟市まで九十五ドル、十キロで百六十五ドルだ。国際宅急便で送るより、大きなサムソナイトをバーゲンセールで百ドルで購入して持ち帰ったほうがましだ。
 アメリカ横断のため部屋で荷造りの予行演習を始めたが、なかなか面倒だ。本を買いこみすぎた。とにかく本は重い。

 ◆これまでの経費の試算
  新幹線など   三百$
  飛行機   八百$
  ホテル(三十泊)  千八百$
  クルマ(三十日間)千二百五十$
    ガソリン    百$
  自炊と外食    千$
  交際のお酒     三百五十$
  ショッピング     千五百$
  雑費       五百$
  ------------------------------
  合計     七千六百$


 アメリカ横断ドライブを前にして、早くも一万ドルの予算が底をつきかけている。こうなったら、できるだけクレジットカードで支払い、帰国後に精算することにしよう。あとは野となれ山となれ。


 三十一日目(七月十九日・日曜日) サンノゼ国際空港でレンタカー返却とアメリカン航空のチェックインの予行演習をすることにした。五分足らずでルート101に乗る。サンノゼ国際空港の標識「SJ Intnl」を発見、無事三十分間で空港の入り口に到着する。目指すはAターミナル。練習してみたら、離陸の二時間半前に空港に到着していることが必要だと思った。空港のレンタカー返却エリアは少し混雑しているのだ。
 メイシスで大型のサムソナイトを購入した。荷物がたくさん入るので満足だ。
 夜、することがないのでテレビを見るが、ドラマにはまっていると意味が理解できるのだけれど、ふと自分が日本人だということを思い出したとたん英語を意識してしまって意味が分からなくなる。はまりっぱなしになれるようがんばりたい。はまりすぎで抜け出られなくなったりして。


著者の略歴

堤 徹(つつみ・とおる)
 1947年10月16日、新潟市に生まれる。1972年、慶應義塾大学経済学部経済学科を卒業(南北問題を専攻)。同年4月、新潟日報社に入社。1999年、同社を退職。ピクニック企画編集長。国際ジャーナリスト。趣味はセーリング、スキューバダイビング、映画、音楽、外国旅行。
■次の著書がある。
 佐渡海底散歩(1976年、野島書店)、日本海の生物(1978年、同)、
地球の神さまのラブレター(2003年、ピクニック企画)

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