キリストの聖地訪問記(1)
キリスト・イスラム・ユダヤの3宗教

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20世紀の世紀末、堤徹。


イスラエル報告記【1】

 イスラエルでは,ユダヤ教徒やイスラム教徒の男女の人たちと交流をもってきました。
 特筆すべきなのは,「イスラエルがキリスト教会に土地を貸してやっている」 「キリストがユダヤの国を助けたわけではないから救世主ではない」「キリストはただの人」 といった会話でした。
 百万の言葉の中でたった4つか5つの言葉でしたが,これに刺激されて,委縮したり考え込んだりさせられました。
 山上の垂訓のあった地の教会では,たまたま日本人のシスターらが10数人おられて, 白人のご老体の説教も日本語でなされていました。
 水を下流に与え続けるガリラヤ湖と水をもらい続ける死海の比較のようなお話をなさっていたように記憶しています。
 どこへ行ってもヨーロッパの女性が石などの聖体に熱い接吻をしていたのが記憶に新しいところです。
 ちょうどイスラエルの政権が代わってまだ日が浅いこともあり,ピースプロセスは少しとどこおっておりましたが, ジェリコ(エリコ)で自治警察の建物と,整然として静かだがそれ以上のものではない街頭を見た印象では, 平和か治安か,豊かさか信仰心か,といった葛藤が頭と心の中を駆け巡り,穏やかな気持ちではいられませんでした。
 ジェリコはエルサレムから車で35分程度のところで,治安は悪くなく, またチャーチ・オブ・テンプテーションズに行くことのできる土地ですので,これから行かれる方にはお薦めです。
 この教会は,岩山を徒歩で上り詰めたところにあるがけっぷちの教会ですが, とかげやハチや高所恐怖が苦手でなければお祈りに行かれるべきところと思いました。
 この山で悪魔がキリストを誘惑したのかと思うと,感無量です。 エルサレムもベツレヘムもナザレも,我が家のように感じて9日間を過ごしてきました。
(写真=ビア・ドロローサ(悲しみ通り=キリスト十字架への道)にて)

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イスラエル報告記【2】


(写真=ユダヤ教徒たちと嘆きの壁(エルサレム市内))

 一人でイスラエルへ行った気軽さ,きょうは百貨店の「ハマシュビル」,あしたはみやげもの店, へといったようにふらりふらりとエルサレムなどをさまよってきましたが, 東西のエルサレムでは,イスラエルとアラブの音楽CDやテープを20ほど買ってきました。
ほとんどがヘブライ語でしたが,アラビックもありました。 意味は聞いていても9歩9厘分かりませんけど, 突然,ユダヤ民族のたどってきた運命が火花のように頭の中を駆け抜けます。
 ご存じのように,軽快なリズミカルな拍子から一転してもの悲しいメロディが流れたりすることがイスラエルのポピュラー音楽でも多いです。 特にOfra Hazaという女性歌手はそうです。 この人,人気歌手らしいです。すごい表現力の歌手がいるんだなぁと思いましたよ。
 日本の若手女性歌手の多くは歌詞などでキリスト教の影響を受けているのがすぐわかりますが, ユダヤ教の国ですから,キリストのキの字も出ないし関係ないのが特徴。 しかし愛に変わりはない。
 ナザレでは,日が暮れる午後7時50分ごろになると,町中からコーランのもの悲しいメロディーが流れ, 暑いのでホテルの窓を開けっ放しにしているとさわやかな風に乗って来るイスラムの人たちのすすり泣きと錯覚します。 それは多かれ少なかれエルサレムでもそうでした。
 ベスレヘムはアラブの人たち(パレステイニャン)の ものでしたが,このイエス生誕の地,それに30年間のイエス私生活の地のナザレ, それらの街がイスラムの人々に守られているのは当然ということでしょう。
 ユダヤ,キリスト,イスラムの3宗教の中でユダヤ教徒にキリストの家を守れというのは無理だと思いましたよ。
 ナザレでは,英国が4分の1,アラブが4分の3のクオーターのご老人と偶然知り合い, そうしたつてで丘の頂上のイスラムのモスクの礼拝にまぜてもらうことができ, 大変に音楽的な,礼拝も日本人に似て床に頭をこすりつけるようなしぐさを前に, ありがたくお祈りに浸ることができました。
 日本人は日本人同士で床に頭をこすりつけるというので日本が神々の国と呼ばれる一因となったのでは。
 別の人(いずれもユダヤ教徒)に「洗礼者ヨハネはイスラム教創始者のモハメットと 同一の人,生まれ変わりだ」といった話を繰り返したら「それ誰から聞いたんですか?」といぶかっていましたけど, とくにわたしを異端扱いはしませんでした。 もっともですね。ユダヤ教徒ですから。

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イスラエル報告記【3】

 テルアビブのベングリオン空港で着陸するときにすごく甘悲しい気持ちになり, あとはビア・ドロローサでどうやって恐怖や不安を抑えようか,それだけでした。
 ナザレでは,例のギリシャ正教会のマリアの井戸のあるその教会のロータリーがあったでしょ?  ロータリーから教会を見て,その向かって左上、 そのあたりを1時間くらい歩きましたが,そこの地下3メートルあたりにイエスが 住んでいたんだろうなぁと思っていました。
 その直後、その近くで仕事をしている男性と知り合いになりましたが, 彼は「どこにジーザスが暮らしていたかは誰も知らない」と話していました。 「といわれているだけ」というわけですか。
 ガリラヤでは,あのマグダラのマリア,その人の生まれ育ったマグダラ村 (あちらではミグダルといい,マグダラといって理解するユダヤ人は少ない) でかなりの時間を過ごしました。 教会はさびれ,閉じられていて,そこに入る許可を取ろうと,ユダヤ人のドライバーと奔走しましたが, 「鍵がかかっている」という理由でとうとう駄目でした。 しかしマグダラは,丘の上が高級リゾート風の建物,湖畔はプライベートビーチ風の入り口にガードマンと鉄の鎖, といった具合で,ただのさびれた村ではないという風情です。
 なお,エルサレム郊外のマリア・マルタ・ラザロの3姉弟のゆかりの 場所(ラザロの復活の墓がある)は閉じられているということで見ることができませんでした。 マグダラのマリアには謎が多いということを感じます。
 こうした聖書の謎は,世界中の学者や聖職者たちのロマンをかきたてているようですが, その多くはイエスの私生活に関係するものが少なくなく,さらにイエスと洗礼者ヨハネの 精神的源流に関わっているかに思います。
 なお,死海の湖畔のあのscroll,死海文書,死海写本でしたか,たしかクムラン教団と記憶していますが, 現地の事情通の話では,学者たちはクムランと洗礼者ヨハネとの現実のかかわりは薄いかのような主張を繰り返しているようです。
 しかし,どうあれ,救世主を待ち望んで禁欲的生活をシビアな生活環境のなかで送っていた彼らは, 間違いなくヨハネとキリストの精神的源流。 1947年に羊飼いが偶然発見したといい,2千年以上も発見されなかった理由は明白です。
 ちなみにわたしはこの年に生まれました。

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イスラエル報告記【4】

 ナザレで一夜を過ごした後、翌朝はガリラヤへ向かいました。
途中、ナザレからカナまでは20分くらいの距離です。もちろん車で。
イエスの妹が結婚式を挙げたと伝えられるカナの入口あたりで ラジオが突然、オリンピック公園での爆弾事件を伝えました。
ヘブライ語なので私は分かりませんでしたが、ドライバーが 私に英語で教えてくれました。
帰国後、時差を計算したところ、そのラジオが伝えたのは 事件後1時間を経ていたと思います。
自分がいまいるイスラエルから米国へとテロが飛び火しているのだ、 という実感を得たのはこのときが初めてでした。
その前、ニューヨーク発パリ行きのTWA機が爆破で 墜落していたので、その直前にパリ経由でイスラエルに 入ろうとしていた私には衝撃でした。
中東が世界の火薬庫だった時代は長く長く続きましたが、 もう中東に火薬庫としての役割を押しつけることのできる人は いないでしょう。
カナの先のガリラヤ湖畔へはすぐの距離です。
タイベリアス(チベリア)は保養地ですが、 そこから北上すると、イエスが山上の垂訓を行った地の丘に 八角形の教会がたっています。
ちょうどローマのサンピエトロ寺院の屋上の みやげ売りコーナーと同様、この八角形の教会にも 小柄な尼僧が絵はがきを売っていて、この人(白人)が 「ここはローマンカソリック教会」と教えてくれた記憶があります。
その尼僧が僕の質問「12人の使徒で誰が一番好き?」と尋ねると 「ピエトロがトップですから」というのですけど、 「でも誰が?」と迫っても言いませんので 私は「サイント・ジョン(聖ヨハネ)が息子のように可愛い」 というと、私を見上げながらにっこりしてくれました。
この教会、正面から見るとトルコの将軍の顔みたいに見えますが、 中に入ると雰囲気は悪くありません。

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